焚き火のような人生の先に残るのはどんな答えだろう

線香花火は人生に似ている、なんていうけれど。
久しぶりに焚き火をして、こっちの方がより人生じゃないかと思ってしまった。

線香花火は、チリチリと小さな火花を放つところから始まり、徐々に盛り上がって綺麗な花を咲かせた後は、次第に勢いを弱め、またチリチリと消えるか消えないかの火を散らせながら、最後は萎んで黒くなる。

なるほど、それが人生といえばそうなのだろう。
一連の様は、肉体の成長から最盛期を経ての衰えとも取れれば、みずみずしい青春や華やかな絶頂期から晩年へ向かうようでもある。

では、焚き火はどうだろうか。
長い話はしない。私が思ったことだけ伝えよう。

焚き火で勘違いされがちなのは「火が出ていなければ燃えていない」わけではないということ。

火が出ているのは、熱や供給されている酸素の量だったり条件が揃っているというだけのこと。
火が消えた状態の薪も、よく見ればじわじわと炭化が進んでいくのだ。

燃え上がる火は美しい。
綺麗に条件を揃えてやれば、自然に燃え上がりその状態が保たれる。

そうでなくても、うちわや火吹き棒で一生懸命酸素を送ってやれば燃える。
ただし、そんなときはなかなか安定はしない。
消えてはまた風を送りを繰り返し、火は歪つだ。

どちらにせよ、言えることは。
火が燃え上がっている以上、薪はどんどん崩壊していき、やがてボロボロに崩れて灰になるということ。

燃え上がれば燃え上がるほど、その瞬間はどんどん早くなる。

燃えろ燃えろと、火を大きくすると、意外にあっけなく終わりはやってくる。
結果を求め、栄華に踊り、どんどん欲に駆られると思いがけない結末を迎えるように。

だからこそ、一緒懸命風を送って薪を燃え上がらせようという行為は、まるで命をゴリゴリと削っているように見える。

一方、火を上げずにじわじわと燃えた薪は長く持つし、炭になって形を残すことすらある。

ただ、形があるようでいて、触るとボロボロになってしまうこともあるのだけれど。

これらは非常に感覚的で感傷的な感想だ。

燃え上がるような人生も、地道で健全な人生も、そのいずれをも私は否定も肯定もしない。

徐々に錆びるより、燃え尽きた方がましだ。

ニール・ヤングはそう歌い、カート・コベインはそう綴った。

いいなと思ったら応援しよう!