燃え尽きられなかった残り滓が錆び続けて空っぽになった先には何かあるのだろうか
旧暦8/4 9:47
私は今、受信したがっているのだなとふと思う。
自分を顧みるときによく思うのは、私は情熱的で明確な目的に向かっていつも進んでいるような人間だった。
……ように見えるだけで、その実、そうではなかったのではということ。
私は、自分の設定したロールに徹するのが上手だったり、自分で敷いたレールの上を全力疾走することに長けていただけなのではないか。
小さい頃はそれが部活だったり、中学に上がる頃には音楽を志したことであったり。
ベンチマーク、モデルにしていた人もずっといた。
カート・コベインしかり、同い年のバンドマン、かっこいい先輩バンドのフロントマンなどなど。
なにかしらの型に「ハマる」ことで人生を力強く転がしてきたに過ぎないのではないか。
だからこそ、一度そのロールの寿命が尽きると空っぽになる。
最新では、2020年5月に人生を捧げてもいいと思っていたプロジェクトから去ったときからずっと凪のままだ。もう4年
子ども頃から自分の人生や終着点を考え続けてきたけれど、結局、私はわたしの中から滲み出した何かを軸においたことなどあったのだろうか。
私は空っぽの人形、もしくは形代でしかなくて、ずっと息を吹き込まれるのを待っているだけなのではないだろうか。
そんな気が、今日してしまった。
今までさんざん考えに考えながら生きてきたつもりだったけれど、もしかしたら何かを受信して、入力された命令に従ったロールを演じてきただけだったりして、なんて思うと虚しさを覚える。
私の知識欲は雑食極まりないのと、努めてすべてを一旦平らに並べて見たいと思っているので、当たり前にオカルトもスピリチュアルも食べる。
最近、「本物」に会ってみたいと強く思っているのだけれど、それも、いつまでたっても次の方針が定まらない=受信できないことにしびれを切らして、なにか強いメッセージを発してくれそうな存在を求めているにすぎないのではなかったか。
迷い悩んで道を見つけることは苦しみが伴う。
私は、楽がしたいのだろうか。
ただ、これが気づきで、今、そう思ったことに意味があるとしたら。
これまでのすべては、ここまでのお膳立てだったことになる。
今、しばらく感じてるこの空虚感の先にあるのは、今度こそ自分の人生を歩むべきときがきたという啓示だったりすいるのであろうか、なんつって。
なんだか面倒なことを言っているけれど、つまりは、もう一度熱狂したいだけなのだ。
身も心も焦がすぐらいの何か。
生き残ったせいで、錆っぱなしだよ、カート。
やっぱり燃え尽きてしまったほうが、よかったのかな。
私は、わたしの人生をコントロールしたい。
思うように生きたい。
真の自由とはなんであるか。最近それについてよく考える。