どの子も育つ
どの子も育つ
父が若い頃、私が5歳位(はっきりとは年齢は覚えていないが)の頃、まだ兄と私が大阪市東成区の小さな家に住んでいたころ、当時の蓄音機で、 父はなぜか、何度も何度もサラサーテのチゴイネルワイゼンを夕食後聞いていた。
もちろん、当時の私は、楽器のバイオリンの事も知らなかったし、 作曲家のサラサーテも、作品のチゴイネルワイゼンの事も全然知らなかった。
でも、子供心に「綺麗な音楽だなあ」と思い、私もしっかり耳を傾けていたのを良く覚えている。
大きくなってから、サラサーテが有名な作曲である事を知り、チゴイネルワイゼンが世界的に有名な曲である事を知った。
家族の写真アルバムに中に、父が若い頃、マンドリンを弾いている写真があった。
私がいつ頃から、音楽好きになったのかは定かではないが、 気がつけば、女子高生時代は合唱団に入っていた。
中学生時代、クラスメートの早坂美智子さんが、バイオリンを習っていて、 早坂さんに誘われて家に遊びに行くと、私がせがんでバイオリンの曲を何度も弾いて貰った。
カリフォルニア州サンデエゴで州立大学に通っていた頃、中国史の教授が、授業中も鈴木バイオリン教授法の良さを説明していた。 息子さんが習い始め、 見る間に上達しているとの事だった。
授業終了後、直ぐに大学の音楽学部に行き、鈴木バイオリン教室について問い合わせた。
ちょうど、娘が4才になったばかりだった 見えない糸に導かれるように、 私の世界とは程遠いはずのバイオリンが、我が家に参画する事になった。
子供の年齢に合わせて、バイオリンのサイズを先生が選んでくださった。 娘に8分の1のバイオリンを買い与えると、中国史教授の言ったように、見る間に上達、大学生達の音楽理論教室で、4才の娘が子供用の曲を披露した。
1974年頃は、米国の音楽教育界に鈴木メソードとして、新風を巻き起こしていた時期だった。
鈴木先生の持論は、「どの子も育つ、 育て方次第」で、大学の音楽学部部長であるブルンセン教授が中心になって、米国に鈴木メソードを広めようとしている時期で、音楽学部の大学院生を、日本の鈴木バイオリン才能教室に、送り込んでいた時期だ。
ちょうど、研修を終えて帰国したばかりの若い大学院生が、娘の先生になった。
長野県松本市で鈴木先生からバイオリンの教育法を学んできたばかりの、その大学院生であるクリック先生は日本語も話せた。
不思議な偶然が重なり、 娘はバイオリン奏者になり、米国の地方にあるオーケストラの正団員として20年以上働いている。
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