二国間
二国間
考えてみれば、私は文化の狭間に長年生きてきた。
日本という国の壮大で長い歴史、文化がある。そのこと自体、大変素晴らしいことだ。
当然であるが、日本という独特の文化を、大切に継承して行く次世代が、絶え間なく成長し続けている。
ただ、地球規模で見ると、他の民族の、歴史も有れば文化もある。
「多種多様な文化、歴史を、同時に知ろう。」と、努力することも、新発見があり、心を活性化してくれる原動力になる。
私の場合は、約合計31年間日本に住み、残りの47年間は偶然が重なり、米国で生きてきた。
第二言語を、日常会話の言葉として生きていると、時々、息苦しい気持ちになることもある。移民1世の宿命だろう。
ある意味で、結果的に、日本を脱出してしまった。無意識下の原動力は、幼少期に、一番必要な母の愛の飢えにあったのかもしれない。
秘めた優しさもあったであろうが、頑固親父で通した父の優しさを、子供心に全然感じられなかった。
孤児同然の境遇であった私が受けた数々の、社会の冷たさに嫌気がさし、 隠れ家を探したのかもしれない。
知らない国ではあるが、「自国よりはましかもしれない。」と、勝手に想像した事が、私の背中を無意識の内に、押したのかもしれない。
人間の本当の動機は、なかなかそう易々と分かるものではない。
ほとんど同じ時期に、偶然、大学卒で同僚である日本人男性から、結婚の申し込みを受けたが、母一人子一人の家庭に、飛び込む勇気がなかった。
その上、職場の上司を通しての、間接的結婚申し込み方法に、私は不満だった。
たぶん、その当時の社会慣習であったのかもしれないが、本人自身が、直接、私に申し込んで欲しかった。
勿論、 それでも、母一人子一人と言う状況は変わらないから、私の答えは同じだったかもしれぬ。
よそ者である私が、 「村生活に溶け込めるか。」と言う、不安もあった
アメリカ人の夫になった人は、全て自分で体当たりした。
初めて会った時から、数回のデートの時、一番良く話してくれたことは、彼の家族のことであった。
愛情溢れた家庭生活を、知らなかった私には、父、母、兄弟姉妹の揃った、彼の家族に関する彼の話し方で、幸せな子供時代を過ごした人だと理解した。
彼の祖父母、叔父様、叔母様、従兄弟従姉妹達についても、楽しそうに話してくれた。
ピックニックに、手料理の昼食をバスケットにいれて、友人達とハイキングに行った時も、ごく自然に、その重い荷物を持ってくれた。
米国に帰国後も、定期的に絵葉書や、誰にでも見せられる、新聞記事のような手紙も、送ってくれた。
米国で働いていた新聞社を辞め、日本で職場を見つけ、再度日本語も話せないのに、自分で決断して、勇敢にも飛んできた。
運良く職場は、ジャパンタイムズ紙で、英語を扱うので、仕事上は、日本語ゼロでも入社できた。
結婚後も、私が庭付きの家欲しさに、「米国に住みたい」と、無茶を言うと、あっさり賛成、本当に行動に移してくれた。
子供が5歳になると、「日本文化を教えたい」と言う、またもや私の難題提示に賛成、さっさと日本で仕事を見つけた。 今回は、共同通信海外部勤務だ。
4年後、再度米国で生活、今度は東海岸。 たまたま、私の仕事は、出張が多かったが、夫は至って協力的だった。
彼の母上も、子供を4人産んでから、暫くして、高校の教師になっていた。 60代のはじめ、大学院の夜学に通い、修士号まで取得した才媛だ。
そんな関係か、我が夫は女性の社会進出に、とても理解があったのだ。
25年以上、 我が家は二人で収入を得る努力を継続、娘はその間、運良く、すくすくと成長していた。