自主保育は究極のローカル
自主保育の世界に足を踏み入れて10年になる。10年前に会った母に最近再会して「まだ自主保育を追いかけているんですか?」と驚かれた(たぶんいい意味で)が、まったく飽きることはない。仕事やプライベートな事情で少し足が遠のきそうになったときもあったけれど、行くとやはり面白いなあとつくづく思う。子どもたちの育ちの場としても、そこで培われる親たちの関係も。
成績付けがひと段落した夏休み、過去に行った自主保育をしていた母たちへのインタビューを読み返すありがたい時間があり、改めて感じたのは自主保育はものすごくローカルな活動なのではないかということだ。ここでいうローカルというのは、局所的というのが一番合っているかもしれない(ぴったりではないが)。私は自主保育を乳幼児を親たちが預かり合う活動と定義しているけれど、預かり合いのかたちもいろいろだし、それぞれの団体で運営の仕方も活動内容も異なる。比較的自主保育グループが多い川崎の同じ区内で活動している団体でもカラーが違ったりするから単なる地域性でもない(鎌倉もそうだと聞く)。同じグループでもメンバーが入れ替われば変化する。自主保育のことを保育の持ち寄りと表することがあるが、究極の局所は、その人個人である。その人がどうしたいか(したくないか)が問われる。かつてインタビューをした母は、ミーティングの際、どっちでもいいということでも「あなたはどう思うの?」と繰り返し問われるので、初めのころはミーティングのたびに頭が痛くなったと語った。みながみなはじめからかっちりとした保育観を持っているわけではなく(多分その方が大変)、預け合いをしていくなかで、自分はどうしたい(したくない)のかが見えてくるのだと思う。
子どもの育ちや活動内容についても同様だ。カリキュラムのない自主保育はそのときのメンバー構成で活動内容がカスタマイズされる。このメンバーだったらこれができる(できない)というかたちで決まる。先日行われた原宿おひさまの会の説明会で私が卒会した子どもの様子について語ると別の母が「そうではない子もいます」と付け加えてくれた。よさを伝えたいためについ特徴的なことを言いたくなってしまうのだが、卒会した子どもすべてにあてはまる特徴はない。
母へのインタビューを読み返していて、このことに気づいたのは、「普通の幼稚園だったら〇○だけど、自主保育は○○」「○○なお母さんもいるけど、私は××」というような比較、相対化する語りが多かったからだ。以前に学会発表したときにはこの比較を親の「学びほぐし」の契機と考えたけれど、改めて読み返してみると自分の立ち位置(局所)を確認するようなものなのではないか(優劣をつけるのではなく)と考えた。
「ローカル」という表現が最適であるかどうかは、もう少し考えないといけないけれど、文科省が進めようとしているすべての5歳児に共通のカリキュラムを行うという「幼児教育スタートプラン」とは対極にあるものであることは確かである。