農と子育て(1)ミカンも子どもも同じ
金井真紀『マル農のひと』(左右社)を読んでいる。道法正德さんという、著者曰く「流しの農業技術指導員」と道法さんに教えを請うた人々についてのルポルタージュだ。道法さんは元は農協で柑橘類の指導にあたっていた方で、本書の内容はみかんの育て方に関する道法スタイルの紹介と、その農法と人となりに魅せられた人の話が主である。道法スタイルが出来上がっていくプロセスや、道法さんのミカンの育て方に関する考えを読んでいくと、子ども(人間)も同じ!と思うことがたびたびある。
たとえば、「人を見ないでミカンを見る」ということ。農協に勤めていた頃、道法さんは指導員としてせん定のやり方や除草剤をまく時期などを農協のやり方に則って農家指導していたのだが、自分(農協)が指導しているやり方は間違っているのではないかという疑問をもつようになる。疑問が生まれたのは道法さんが常にミカンを見ていたから。ミカンの栽培方法を伝えるのだから当たり前のような気がするが、実態はそうではない。道法さんがこれまでのやり方に疑問を持って先輩に尋ねると、「新米なのに生意気言うな」と一蹴されてしまう。めげずに道法さんは実験を重ね、自分のやり方に自信を持っていく。自信を持つことができたのは、先輩の顔色をうかがうのではなく、ミカンの様子をうかがっていたからだ。周りの人が何と言おうと美味しいミカンができることは、何よりの励みになる。子育ても子どもを見る(答えは子どもが持っている)ということが基本なのに、今は情報が溢れているし、周りの人もいろいろなことを言ってくる。そうすると、子どもを見なくなるという本末転倒な事態が生まれる。
道法スタイルは、これまでのやり方を覆すもので、肥料も農薬もほとんど使わず、手間をかけないのに、糖度の高いミカンがたくさん獲れるという。私は子育てとは、いかに大人が子どもの育つ力を信じて、口や手を出さないでいられるかにかかっていると考えているので、この点も同じだ!と思った。自主保育が大事にしている「見守る」保育にもつながる話である。もちろんミカンは商品で、子どもはそうではないから、単純にミカンと子ども(人間)を一緒にはできないのだけれど、子育てでも「○○力が伸びる」とか言われると、やらないのは不安になりミカンに肥料をやるようにあれこれ足したくなるのだが、”肥料”をやらずとも子どもは育つ力を持っている。本書では「農薬は中学生がタバコを吸うようなもの。肥料は覚せい剤をやるようなもの」という道法さんのきわどい名言が紹介されているのだが、依存性を示唆していて、奥深いと思う(道法さんにその意図がどのくらいあるかはわからないが)。
本書に限らず「農」と子育て、ひいては人が生きることには多くのつながりがあると思う。「農」=農業ではないのだが、そのあたりも含め「農」をキーワードに子育て、子育ち、そして自主保育についてゆるゆると書いていきたい。