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アメリカ滞在記(前編)1968年〜

一、旅立ち

 1ドル360円、昭和43年、私が20才の頃である。 東京オリンピックが終わり少しずつ日本の近代化が実現し、高度成長期にさしかかりつつあったが、まだまだ日本は貧しかった。そんな時代アメリカ合衆国はあこがれの国であった。今でこそ海外旅行は珍しくもなく、留学やホームステイは競って沢 山の若者が経験をする。当時私は、アメリカに嫁いで行った姉の招きで行く事になり、友達から随分羨ましがられたものだ。姉は私を呼び寄せ、気に入ればずっとアメリカに・・・と考えていたのか私に永住権を取る手続きをしてくれた。その許可が下りるのを高校を卒業して働きながら待っていた。

  姉は私が渡米する時に、いろんな物を持ってきてほしいと頼 んだ。仏壇、ざぶとん、それに父の仕事の品でもある剣道の防具など重ばる品々である。その事もあって私は船で行くことになった。その頃アメリカと日本を行き来する2隻の客船があった。ウィルソン号とクリーブランド号である。船の大きさは2万3千トン、乗組員だけでも300人位いるとのことだった。アメリカまで2週間かかる。旅費が片道およそ10万円位だったと思う。当時の私の月給が2万円も無かったのでかなりの高額である。

 急に許可が下り、家族や友人とゆっくり別れをする暇もなくバタバタと準備して旅立った。姉に2人目の子どもが生まれるので、どうせならその前に着く便に乗るようにと、12月24日発のクリーブランド号を手配したとの事だった。神戸まで見送ってくれた家族らと、出航までの数時間をぞろぞろと船の中 迷いながら歩いて見て廻った。大きなホテルか町のようである。世界の主な国の時刻を表す時計が並んでいる。アメリカの船なのでもうすでに外国に来た感じがする。いよいよ一人旅の始まりである。高いデッキの上より大勢の見送りの人達に手 を振って別れを惜しむ。色とりどりの紙テープを投げ合い船と岸が結ばれる。低く物悲しくボウーと汽笛が響く。寒い日であった。姉がアメリカに行った時も同じように寒くて、本当に手の届かない遠い所へ行ってしまう思いで悲しかった。紙テープが次々と切れついには全部切れてだんだんお互いを小さくして行く。

 皆と別れて一人になった私は、自分の新しいこれからの始まりに気持ちが高ぶり、いつになく積極的になっていった。その夜クリスマスパーティが催された。振袖を着ていた私は着物のまま何曲も踊った。エコノミークラスの私達の所には、フィリピンや中国などから移民する人達がいた。日本の青年達は建築や写真やその他勉強の目的を持って行く者がほとんどだった。船の中にはプールや図書館やバーがあり、それぞれが思い思いの過ごし方をする。退屈しないように映画やダンス教室などがあり、催し物もいろいろある。中国人はマージャンをしている人が多 かった。若い者はすぐ友達になる。中には恋も生まれる。私も片言の英語とジェスチャーで結構通じ合えるのが面白くて、6人部屋の中にいるのは寝る時位だった。太平洋行けども行けども海ばかり、空と海がくっついているようだ。時折海が荒れて船酔いでダウンする人が多く出た。そんな中で私は平気だった。ラウンジにころがったビールのビンが右から左へコロコロ又左から右へと繰り返すのを面白がって見ていた。食事の時はチャ イムを鳴らして回られるのでダイニングルームに行って食事をする。朝から甘いパンが出たり、テーブルの上に生の人参やネギが置かれてあるのを見て驚いた。珍しいオレンジもみかんとまた違っておいしいと思った。途中ハワイに停泊したが、生憎のドシャブリの雨であった。仲良くなったフィリピンの友がそこで降りた。若くて純粋だったのか私は人種に対して何のこだわりも持っていなかった。みんないい人達だった。ダーヒルサイヨーと始まる美しいフィリピンの民謡も教えてもらい、今でも忘れていない。船の中で歌の会があった。バンドの人達の演奏 で唄うのである。私は外国人にまじって、その頃流行っていた 「恋は水色」を唄った。お正月も船の中で迎えた。 未知の世界に飛び出した私は、何でも受け入れ吸収していろんな事を学んで帰ろうと、自分の中では3年間という区切りを つけて考えていた。若さと希望とで何か特別な力を感じていた。



二、 あこがれのアメリカ

 途中日付変更線の関係で、同じ日を2日送るという奇妙な体験をして船はサンフランシスコに着いた。父がしっかりとしばってくれた大きな8つの荷物が、迎えの2台の車の中に余裕で納まってしまった。何車線もある広い道路、時折日本車が走っているがまるで軽自動車に見える。初めて見るアメリカの町並、囲みのない芝生の庭のある家々、見るものすべてが大きく広く美しく驚きだった。ベイブリッジという巨大な橋を渡って、姉の住むオークランドの町に着いた。

 お腹の大きい姉が外に出て待っていてくれた。9年ぶりの再会である。姉が日本を離れた時は私はまだ小学6年生であった。長女である姉と6人兄妹末っ子の私は16歳も違っていた。病弱だった母の代わりに私達の面倒をしっかりみてくれた姉である。

 私がアメリカに着いて5日目に姉の2人目の女の子が生まれた。病院で出産した姉は2日位して家に帰って来た。アメリカでは生まれてすぐ赤ちゃんを初湯に入れることをしない。 反対に親の方はシャワーにすぐかかるとのこと。家に帰って来た赤ちゃんを私が初湯に入れた。

 姉達はアメリカでも日本人社会の中で多く生活をしている。姉の夫は2世で熊本育ちである。県人会というのがあって、わざと熊本弁を楽しんで使っている。梅干、ごはん、みそ汁何でも日本食がある。奈良漬まで家庭で作る。1世の人達からいろいろ習って工夫して作るのである。日本人でも全く日本人社会と離れて暮らす人達もいる。そうする事でアメリカに溶け込んだ生活が出来るというのである。人それぞれで、姉たちはある面日本に居る者よりももっと日本を意識して暮らしている。日本民謡や民謡の太鼓も習っていて、カレンダーには余白がない程スケジュールが書き込まれてあった。サンフランシスコの貿易センターを中心に桜まつりが催され、いろんな山車が出て賑やかなパレードがある。貿易センターには都ホテルをはじめ、日本料理店や土産店などがある。生花やお茶の会、琴、空手等多くの日本的な催しがよくあっていた。宝塚の歌劇団が来た時「マダム・バタフライ」を見に連れていってもらった。剣道も盛んで、サンフランシスコとロスアンゼルスの南北大会というのを見に行った事もある。ここがアメリカかと思う程アメリカに来て日本文化に触れる機会が多かった。

 今からおよそ30年も前の事であるから、アメリカはその頃の日本の生活とは比べられない位文化的で豊かであった。紙をやたら贅沢に使う国、文化のバロメーターは紙の使用量で決まると聞いた事もあった。今のように箱に入ったティッシュさえその当時の日本にはなかった。スーパーマーケットが夜遅くまで開いている事にも感心した。大型の冷凍冷蔵庫、食器洗い機、オーブン、ディスポーザー、衣類乾燥機、家中どこでもお湯の出る生活、完全な暖房設備、車社会などすべてが夢の様であった。週休2日制も完全にあたりまえの生活であった。でもいい事ばかりで驚いた訳ではない。車に乗るとすぐロックをするようにと言われる。赤信号で待っている間に開けられ危険な目にあう可能性があるからだそうだ。ニュースで薬局の女主人が表彰されたと報じられていた。何でもその薬局に入った強盗を3回も正当防衛で殺したというのであった。姉の家の近くで銃声を聞いた事もある。又ある日バス停で2人の黒人が夫人のバッグをとろうとしてそれに逆らった夫人の顔面をなぐって逃げるという現場を、私は乗っているバスの中から見た事もある。アメリカ人というと白人をイメージしていた私は、黒人が多い事にも驚いた。サンフランシスコやオークランドは気候がとても良く、白人が多く住むようになる。すると黒人がその住み良い所に入って来る。それをいやがって白人の中には出て行く者もいると聞いた。その頃はまだ肌の色の違いによる差別が根強く残っていた。日本人もジャップと呼ばれ石を投げつけられたこともあると1世の人が語っていた。若い人達の間ではそんな差別は少なくなっているらしく、黒人と白人のカップルもよく見かけた。

 丁度ベトナム戦争のさ中であった。姉の家に遊びに来る私と同年代の青年達の中にも戦争に行く者がいた。戦争に行けば市民権が得られるという理由で入隊する外国人もいた。日本人留学生で戦車の上で弾にあたって亡くなったという話も聞いた。日本赤軍によるよど号事件や三島由紀夫割腹自殺のニュースなど入ってきた。その少し前はアポロ11号による人類初めての月面着陸の興奮するニュースをアメリカのテレビで見ることが出来た。 ヒッピーが全盛期の頃でもあった。オークランドの隣町バークレーに有名なカリフォルニア大学がある。その校門の近くの通りはヒッピーであふれていた。



三、学生生活

 私はカリフォルニア大学の近くにあるマッケンレーハイスクールという学校にバスで通うことにした。外国人のための無料の学校である。アメリカに来て3ヶ月がたっていた。1日5時間もちろん英語で授業を受ける。初めの内は頭痛がした位だ。フランス、イタリア、インド、イラン、中国、韓国といろんな国の人がいた。ほとんどの国の生徒は英語でとにかく話が出来る。私のように話せない生徒は他にあまりいない。不甲斐ない。でもテストになると割に良い成績で、日本の英語教育がいかに会話のためでないのかを思い知らされた。しばらくして日本の生徒が数名入ってきた。休み時間になると集まって日本語で話す。家に帰れば熊本弁なので私の英会話はあまり上達しなかった。

 日本びいきの男の先生がいた。私が熊本から来たと言うと、次の日私の机の上に熊本の人なら誰もが知る有名ホテルのマッチ箱をポンと置いて行かれた。その先生からある日ヨットに乗せてやると招待された。もう1人の日本人学生と3人でヨットハーバーに行くと格好いいヨットが所せましと並んでいる。帆を操ったりして数時間、初めての経験で楽しかった。先生はダイエットだと言ってうすいクラッカーを昼食にいつも持ってこられていて不思議だった。

 日本各地からきた私達日本人学生はよく一緒に楽しんだ。ギターをつまびき、いいムードで唄うS子、ガマの油売りの口上がすごくうまいY雄、ハンサムだが要領のいいT也、積極的で努力家のM子、私達は互いをファーストネームで呼び 合った。学校でフェスティバルがあった。それぞれの国の人達が何か出し物をする。私達は着物姿で輪になって「月が出た出た」と唄って踊った。歌の上手なS子は「こんにちは赤ちゃん」を英語で説明して唄い拍手喝采を受けた。

 夏休みになった。長い休みになる。 英会話の出来ない私が働ける所はなかなかない。やっと決まったアルバイト先は、サンフランシスコのゴールデンゲイトパークの中にあるジャパニーズティーガーデン、つまり日本庭園の茶店での皿洗いである。その公園はとても広く、立派な美術館や博物館があり連日多くの人が来る。茶店では日本茶や中国茶と一緒に、占いの紙が中に入ったフォーチュンクッキーやあられなども出していた。着物美人の2人のお姉さんが客に持って行き、ボーイ達が片付け、私達中にいる何人かは洗いものをしたりお茶の用意をしたりするのである。目が回るように忙しくトイレに行くのもガマンする位だった。時給1ドル75セント、5日働いて1日分の税金が引かれてあってびっくりした。それでもその頃日本にいる親に何かしたくて、貯まった中から100ドルを送金した。アルバイト先に行くまでバスを4回乗りかえる。今思うとよく頑張ったものだ。他に収入の道がなかったから出来たのだろう。バスの中で英単語を覚えようと辞書を持ち歩いたが、疲れて帰ってきて細長いバスタブに体を横たえたまま眠り込んだ事も何回かあった。

 又学校が始まったがその頃何かいつも焦っていた。あまりにも日本人社会の中にいるということが原因だと思った。姉の所を離れてスクールガールになる事を決め、受け入れ先を探してもらった。



四、スクールガール

 スクールガールとは白人の少し裕福な家に住み込んで、そこから学校へ通う学生のことをいう。女はスクールガール、男はスクールボーイと呼ばれ、日本の学生は喜んで受け入れてもらえた。お手伝いを少しして小遣いもいただける。ピートモントという高級住宅が立ち並ぶ丘がオークランドの近くにあるのだが、レンガ造りの立派な屋敷に住む家族が私の受け入れ先になった。裏庭にテニスコートもある。保険関係の仕事を持つご主人とステキな奥さま、それに5人の子供達がいた。上から4人が女の子で1番下が6才の男の子。その男の子が馬アレルギーだという。家族で乗馬に行くのに連れて行けないので、その子と時々留守番をしてほしいというのが条件のひとつでもあった。台所近くに風呂付きの広い部屋を与えられ、アンティーク調の机やソファーも入れてもらった。裏庭の見える私のお城である。

 夕食の食器を片付け、ネコや犬にエサをやり、ゴミを集めるなどの簡単な仕事もする。広い家だった。部屋がいくつもある。朝はハウスキーパーの黒人のおばさんが来ていた。時々日本人の庭師が庭の手入れに来る事もあった。各部屋はカーテン、ベッドカバー、ゴミ箱まで同じ柄で統一されている。材質が違うのにと当時は不思議だった。地下の居間には壁にライフルが何丁も飾られていて、その横に写真も飾られていた。写真の中の家族は日本では考えられない生活だった。素敵な別荘、水上スキーをしているところ、乗馬で障害の柵を飛んでいる様子など何か夢のような世界が目に入ってくる。他にも地下にはワイン倉庫の部屋、卓球台が設置してあるジムの部屋があり、男の子用の遊び部屋にはリモコンで動く汽車のレールが広く敷かれてあった。もう一つは家事をする部屋で、洗濯機やアイロン台が置かれている。洗濯物が2階のベッドルームから一直線にこの部屋までストンと落ちてくる仕組みになっている。掃除機はホースだけを壁に直接差し込むようになっていた。何もかも興味深い事ばかりである。子供が多いので会話の勉強に良いだろうと思ってやって来たのだが、思惑が外れた。それぞれ個室を持っていて食事の時以外あまり出てこない。食事もすごく簡単で質素だった。冷蔵庫にリンゴが数個だけという時も多かった。ジャガイモと肉をオーブンで焼くような食事がほとんどだった。夫婦で外出される事が多く、そんな日は子供達だけでごく簡単に食事を済ませる。スクールボーイの友達の話によると、彼の受け入れ先では毎日スープから始まってフルコースの食事だという。アメリカ人も家庭によってさまざまである。

 スクールガールになり学校に通っていた私は、またもや遠いアメリカまで来てこのままでいいのだろうかと考えだした。自分で決めた3年間をムダに過ごせない。今度は全く日本人のいない所で勉強をしようと決め、美容学校に行くことにした。うまく行 けば1年で資格をとり働くことも可能だ。こうすることが早道だと考え自分で美容学校を探し、感じのいい女の校長先生に会い入学を決めた。マイレディビューティカレッジという学校で、日本人は一人もいなかった。不安はなく期待と希望に胸を躍らせていた。

1997年 Fumiko作

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