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母のショール(1997.9.24著)

 私が生まれてから後の母の写真は数枚しかない。そのどれもやせて弱々しく、どこか寂しげな、でも優しい感じの母の姿である。

 母はぜんそくだった。時々発作が出て苦しみ入退院を繰り返していた。私は6人兄妹の末っ子として生まれ、10歳の時に母は亡くなった。店と住まいを戦争で焼けだされ、父の武道具製造販売の仕事も、敗戦後その職種故にしばらくは出来ず、いろいろ苦労したようだ。

 新天地を求めて私たち家族は慣れない大阪の地へ移り住んだが、母の病気はひどくなり家計も苦しく、母の着物のほとんどが生活のために消えていった。

そんな中で母が最後まで愛用していたショ―ルがあった、ベルベットの紺色の地にモダンな帆掛船やラクダや象の絵柄を銀色のラメでふち取りした着物用のショールである。裏地はあざやかな青い絹で出来ている。

どのようにして私の手元に残っていたのか定かではない。たぶん柳ごうりに入っていたのをいつからか母の形見として持ち続けていたような気がする。とにかく随分傷んでいるし、端の方はひっかけたように破れているところもあって、そのまま使えるものではなく、永い間しまいこんだままになっていた。

 高校時代の同級生がときどきお姉さんと共に繁華街のギャラリーで姉妹展を催す。同級生は彫金を、お姉さんは袋ものやバッグ類を展示販売している。今年の夏も案内があって足を運んだ。見ているだけでも楽しくなるような本格的なアクセサリーやバッグをついつい買い求めてしまう。一緒に出かけた友達がおばあさんの遺した帯でバックを作ってもらうと言うので、あっそうだ私も母のショールがあったのだと思い出して、彼女に真似てお願いすることにした。

 制作期間をしばらく待ち、出来上がったとの連絡があったので、友達と受け取りに行った。母のショールはやわらかい風合いを生かして、丸みをもったステキなバッグに生まれ変わっていた。それに加え小さいポーチ型のショルダーと、船の図柄を中心に丸く切りぬいてはめ込んだ長方形のバックまで、合計三つ作っていただいていた。友達が頼んでいた帯のバッグもお洒落で上品に仕上がっていた。

 わが家から5キロほど東に住む4歳年上の姉にバッグのことを話した。思った通り姉も欲しがった。それでポーチ型のショルダーか長方形のバッグか、2つのうち1つをあげることにした。姉はかわいらしいポーチを選び、喜んでくれた。長方形のバッグは、趣味で通っている文章の会などの時に持って行けると私は考えた。ショールの布をいっぱい使った丸いバッグは、なんとなく母のにおいがして、なでるとやわらかい感触が手に伝わる。

 子どもの頃、夏になると広場で毎年盆踊りがあった。大人も子どももゆかた姿で自由に輪の中に入って楽しそうに踊る。私も皆に混ざって踊りたかった。でもゆかたを持っていない。洋服では恥ずかしくて、とてもじゃないけど入れない。悲しかった。家に帰ってゆかたが欲しいと泣いた。泣いて、たぶん母を困らせたのだと思う。次の年、母はゆかたを縫ってくれた。私は、思う存分盆踊りの輪に入って踊り、楽しんだ思いがある。そして夏が終わり、その年の9月の末に母はぜんそくで亡くなった。

 15歳の時、父と4歳上の姉と3人で大阪から熊本へ引越した。小さくなって着なくなった私のゆかたはタンスの奥にしまいこんでいた。家の裏の方に新婚さんが住んでいて、姉はその若い奥さんとよく話をしていた。やがて赤ちゃんが生まれた。ある日ゆかたが無いのに気づいた私は姉に尋ねた。姉はけろっとして
 「赤ちゃんのおしめに使えるように、あげたよ」
と言った。ショックだった。今でもときどき私は姉にその話をする。姉は悪かったと思っているので、わざとからかうのである。

 私にはもう一つ母の形見がある。今はもうボロボロだけれども、貧しい頃母がいつも使っていた薄っぺらいワニ皮の財布である。こづかいの5円をもらう時も、母の白髪を抜いたり肩を揉んだりしたときにくれたおだちんも、この財布からとり出してくれた。

 姉はあっけらかんとして、こういう事に無頓着だったようで、母の形見を何も持っていなかった。そして私に
「ふみこは、ちゃっかり何でもとっとるとだけん」
とよく言った。今になって姉が自分も母の形見があればと思っていたところだったので、母のショールのバックは姉へのよい贈りものになったと思う。

 母が亡くなって38年、すり切れる程使ったショール、これを肩に羽織ってどういう日々 を過ごし何を思ったのだろうか。

 母のぬくもりがよみがえってくる。

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