私の母の回想録
20歳の時に、母が亡くなった。体は丈夫ではなかったが、突然のことで、現実として受け入れることができなかった。当時母は50歳、若すぎる。
当然涙はたくさん出るし、お葬式だってしている。だけど本当に母が居なくなったとは思えない。夢を見ているようで現実みがない。それとは対照的に辛そうに泣く父の姿は鮮明に覚えている。焼き場のドアを閉め、ジリジリッとベルが鳴る。ごおぅと音がする。
「あぁ───ッ」
我慢できずに声を上げて父は泣いた。
父の泣く姿を初めてみた。
うちの両親は仲が良く、父は仕事から帰って来ると必ず母の所在を聞いた。
趣味でやっている家庭菜園、「畑に行ってるよー」というとそそくさと畑に向かう。
しっかり者の母に、お人よしの父。尻に敷かれている感はあるけれど、絶妙なバランスである。
私はそんな両親が微笑ましかった。
9月のある日何気なく家に電話を入れた。珍しく父が電話に出た。「お母さんは?」と聞くと口ごもる。よくよく聞くと入院したということだった。その頃私は、岡山で学生服を作る会社に勤めながら夜間の短大に通っていた。今年度で卒業だ。
私は、姉と同じ進路を進んでいた。2年前、答辞を読むことになった姉の卒業式には両親揃って出席をしていた。
母は私の時も2人そろって出席すると言ってくれていた。父の下手な運転で「ゆっくりとドライブしながら来るからね。」そう約束してくれた。
しかしその約束は果たされない。
卒業式には父が1人で来てくれた。
卒業後は、孤児院に勤めようと思っていたけれど、妹も高校卒業し大手の企業に就職も決まっていた。1人になる父のことを考えて地元に帰る事にした。産休代替保母、臨時職員。
これが私の最初の分岐点だ。
母が生きていればどんな進路だったろう?
母は入院して3ヶ月程で逝ってしまった。末期の癌、やせ細り苦しそうだった。
危篤の知らせを聞き、駆け付けた時には昏睡状態、「お母さん帰ってきたよ。」そう声をかけると息も絶え絶えの中、目を開け私を見てうなずいてくれた。それが最後の反応だった。
新幹線で岡山から福岡まで当時は3時間かかり、その時間がたまらなかった。
「ごめんね。ごめんね。」何がごめんね…なのか、母に聞こえるように声をかけた。
3年前、高校を卒業して、新しい土地に行く事をあまり深く考えてなくて、期待のほうが大きかった様に思う。見送りに来てくれた母の涙を見て罪悪感を覚えたこともあった。当時は自分のことばかりで、親に感謝したり、思いやったりしていなかった
小さい頃は、厳しい母より優しい父が好きだった。なんでもできる賢い姉、(知らない人が多いかもしれないけど、漫画の生徒諸君のナッキーみたい)末っ子でかわいい妹と違い、素直に甘えることが出来なかった私。馬鹿みたいに、何をもって我慢していたのか?
もっと沢山話をすればよかった。母が私のことを見てないんじゃなく、私が母をみてなかった。
厳しいんじゃなく、ちゃんとしていた母。
ばかがつくほど、お人よしの父。家族を守るため、母がきついこともいわなければならなかったんだと、今は分かる。
ごめんなさい。お母さん
会いたいです。お母さん
手先が器用で、料理、裁縫、編み物どれもプロ級。色んな物を作ってもらった。
だけど体が弱く外で仕事をしてくると疲れるのか、家に帰ってくると寝込んでいることが多かった。家事は私たちが分担してやらされた。
「あなたたちは女の子だから、今やっていることは、将来役に立つ」母の主張。
家事全般、近所の冠婚葬祭の手伝いまで、小学生の頃から当たり前にさせられた。
当時、遊びを早く切り上げ家の帰らないといけないという強迫観念は、子供心に、母の主張は、こじつけに思えた。
食事中、姉が文句を言ったり口答えをすると、はしが飛んできたりすごく怒られたもの。
普段はやらないけど、やれば完璧、私たちはぐうの音もでない、母はそんな人だった。
決して楽ではない経済状態、それでも父が車を買うといえば、ローンはダメだと現金を出す母。すごく堅実的、倹約をして計画的、しっかりした母。
教育にも熱心で、頭のいい姉は母の自慢。
きれいな字を書きなさいと付きっ切りで厳しい指導、硬筆や毛筆で表彰されると「やれば出来るでしょう?」と誉めてくれる
お母さんの言う通り
家事の手伝いもそう、嫁行っても困らなかった。料理はできたから。
今自分が母になり、親の有難さを痛感している。
ありがとうおかあさん
今生きていたらどんな話をしているだろう。
いつか、そちらにいったらいっぱい、話そうね。