羽黒山から月山への道にはいくつもの掛け小屋が建っていたという話①~野口-海道坂~
現在、いでは文化記念館の2階では出羽三山の古写真の展示を行っています。羽黒山の登山口から月山へ続く道にはいくつもの掛け小屋(月山登山者への食事や休憩・宿泊のための臨時の小屋)が建っていました。そのような風景をおさめた、昭和初期の出羽三山の写真が展示されています。
羽黒山から月山への道
地元では「木立三里」「草原三里」「石原三里」と呼ばれた月山への道。羽黒山の登山口から月山へ続く道には、各所に呼び名があります。場所によっては末社もあり、昔の絵図には末社の名称が描かれているところもあります。
入口:野口(のぐち)
半合目:傘骨(からかさぼね)
1合目:海道坂(かいどうざか)
2合目:大満(だいまん):小月山神社
3合目:神子石(みこいし):神子石神社
4合目:強清水(こわしみず):生井神社
5合目:狩籠(かりごめ):新山神社
6合目:平清水(ひらしみず):津長井神社
7合目:合清水(ごうしみず):栄井神社
8合目:弥陀ヶ原/御田ヶ原(みだがはら)
9合目:佛生池(ぶっしょういけ)
月山(山頂)
その呼び名はあの松尾芭蕉一行が「おくのほそ道」の旅で出羽三山を訪れた際に芭蕉に随行した曾良の日記からも垣間見えます。
「おくのほそ道」の旅で出羽三山を訪れた松尾芭蕉一行は、旧暦6月6日(新暦では7月の下旬あたり)に羽黒山から月山に登り、翌日湯殿山に渡った後、再び月山を経由して羽黒山(南谷)へ戻りました。
『曾良旅日記』では「小ヤ」や「こや」といった言葉が見受けられます。これが今回のテーマである「掛け小屋」です。
この『曾良旅日記』でもわかる通り、明治時代まで各地は「6合目」などではなく「平清水」などといった名称で呼ばれました。各名称が「○合目」として対応するようになったのは明治時代以降です。当時は清水の湧くところに掛け小屋を建てたのです。
野口・傘骨
羽黒山の奥の院である荒澤寺を超えると、野口(のぐち)という場所があります。荒澤寺は昔一部女人禁制でした。しかし、女性でも参拝ができるように女性が通ってもよい道として女人道が設けられました。その女人道が野口にあります。野口は羽黒山側から月山へ向かう道の入口である「羽黒山口(羽黒荒澤口)」で、月山に登拝するための8つの登り口である「八方七口」(注2)の一つです。
野口では展望が徐々に開き、西には庄内平野の青々とした沃野に赤川が悠々と流れ、その先に日本海が見えるといった様子だったようです。
野口から少し歩くと、傘骨(からかさぼね)です。かつて掛け小屋が建っていました。
小屋名の由来は、この近くに傘に似た大きな松があったから、または芭蕉が月山登山のとき、傘をさしてきてそのとき突風で傘が壊れ、骨だけになったからなど、諸説あります。
ここから道は馬の背のようになり、野のなだらかな山道となって、左右に大きな谷が見えてきます。
掛け小屋では茶屋が営まれ、小屋の名物は冷たい湧き水で冷やされたそうめんやところてんでした。その他、力餅やうどん、菓子も販売していたようです。
海道坂
野口から海道坂までの道は、松林やブナ林の中を歩きます。海道坂(かいどうざか)は見晴らしの良い小高い山の上にあって、西側に叶宮(かのみや)(注3)の鎮守の森、東からは立谷沢の全景をみることができたといいます。非常に眺望が良い場所として知られています。この小屋の名物は力餅だったようです。
海道坂小屋は戦後にはすでに廃業していたようです。ここからはより深みへ、月山の阿弥陀の世界に入っていきます。
脚注・参考
脚注
(注1) 羽黒山歴史探訪:いでは文化記念館主催の人気のイベント。講師の案内のもと羽黒山をはじめ出羽三山を自らの足で歩き、より出羽三山の歴史と文化に触れて理解を深めることを目的にしている。
(注2) 八方七口(はっぽうななくち)*²:月山に登拝するための八つの登り口。かつてはそれぞれの登り口に寺院や宿坊街があった。
・羽黒山の荒澤口:羽黒口
・阿吽院(あうんいん):肘折口(ひじおりぐち)
・日月寺(にちがつじ):岩根沢口(いわねさわぐち)
・注連寺(ちゅうれんじ):七五三掛口(しめかけぐち)
・大日坊(だいにちぼう):大網口(おおあみぐち)
・大日寺(だいにちじ):大井沢口(おおいさわぐち)
・本道寺(ほんどうじ):本道寺口(ほんどうじぐち)
・照光寺(しょうこうじ):川代口(かわだいぐち)
川代口は羽黒山を経由せずに湯殿山へ向かう可能性があるため、それを避けるために第50代羽黒山別当の天宥によって寛永年間に閉鎖された。七方八口*³とも言われ、七五三掛口と大網口は同じ大網にあったことから、七方(七口)となった。
(注3) 叶宮(かのみや):羽黒町川代の月山高原牧場内に鎮座する宮。道案内の神である猿田彦大神を主祭神とする。御神体である三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)の前で願いを祈った後、多数置いてある人形をひとつ持ち帰り願いが叶ったらその人形と一緒に新しい人形(境内内で販売)をひとつ供えるという風習があるようだ。*⁴
参考文献・URL
*¹『曾良旅日記』, 河合曾良, 1689~1691
*²『日本遺産 出羽三山』八方七口
*³『出羽路の宿 宮田坊』出羽三山を知る
*⁴『叶宮神社』庄内コンシェルジュ
『奥の細道 芭蕉と出羽路』,早坂忠雄, 1988