「月夜のストレンジャー」第3話

 飯島ヒロオは空を見上げて走っていた。職場での目立たない黒髪とスーツ姿から一変して、髪色は紺と緑のツートーン、服装は原色を多様した派手な装いである。
 いつものように定時ダッシュして自宅に戻ってからも影の動向を追っていたヒロオは、白いスーツの男が数日ぶりに姿を現し、ビルの谷間を縫うように駆けているのが目撃されたことを知り、いても立ってもいられず街へ飛び出した。運良く白い影を発見し、見失わないように追いかけているところだ。
 白い影がビルの谷間に吸い込まれて消える。ヒロオは立ち止まり、ビルとビルの間の闇を見つめた。
 しばらくして――なにか、重たいもの同士をぶつけ合うような鈍い響きが闇の奥から何度も聞こえる。
 この先にいるんだろうか…もしかしたら黒い影も?
 期待とは裏腹に体はすくんでいる。勇気を振り絞って一歩、闇に足を踏み入れた。
 
 *
 
 細い路地の奥、やや開けた空間で黒と白の影がぶつかり合っていた。
 見上げると、四角く切り取られた空には満月。
 ワタルが殴りかかれば、黒い影はカウンターパンチを当てようと動く。カウンターが来るとわかっていれば対応は可能だ。避けるか、受けるか、その瞬間毎に判断して、次の攻撃につなげる。はじめこそワタルは影にふれることすらできずにいたが、次第に感覚をつかんで、10回攻撃すれば1回は当てられるようになっていた。
 パンチのラリーが続く。自分が投げかけた拳に、相手がどう返すのか、帰ってきた拳にどう対応するのか――行為としては殴り合いであったが、たしかに相手を知るための会話に似ている。
 黒い影からは絶対に攻撃してこない。脱力して、こちらを伺っている。こちらが動いてはじめて、動く。
 多分、勝とうとしていない。負けないように、自分自身を守っているのだ。
 黒い影はワタル自身。体重が増えていることも、お腹がでっぱってきたことも、体力が落ちて昔のように無茶ができなくなったことも――どうせ克服なんてできっこない。
 年をとれば代謝が落ちて太る、そもそも歩き回らなくったって生活は事足りる便利な時代になってしまったのがいけない。だから運動不足は俺のせいじゃない。そうやって、自分に言い聞かせて、負けないようにしていた。
 傍からみれば、弱くて逃げ回ることしかできないやつだと決めつけられてしまうのかもしれない。しかし拳を交えているワタルには、相手が強いことがわかる。とてつもない強さで、負けないように自分を守ってくれていたのだ。
 それでも――
「俺は、前に進みたい」
 黒い影への感謝の気持ちを込めて、右の拳を影に向けて飛ばす。黒い影は拳を持ち上げカウンターを打ち込む素振りを見せたが、不意に空を見上げて固まった。ワタルの右拳が顎を打ち抜き、影は後方へ吹き飛んだ。
 壁に衝突した影は、ぐったりと動かなくなった。

 *

 肩で息をしながら、壁に寄りかかって動かない影を見つめていた。
「自分に優しくできるのって、悪いことじゃないと思います」
 ウサが言う。イヤミなんかではなく、本当にそう思っているんだろう。
「ありがとう」
 爽快な気持ちばかりではない、後悔や不安もないまぜになった胸を張って、ワタルは空を見上げ――
「な――ッ!」
 空から、巨大な黒い塊がワタルめがけて落ちてくる。思い切り横に飛び、なんとか回避できたもののワタル自身も壁に全身をひどく打ちつけてしまった。
 鈍い痛みに、肺を鷲掴みされたように呼吸ができなくなる。
 轟音とともに地面にめり込んだ黒い塊がゆっくりと体を起こす。
「あ…ああ…クマ…?」
 路地の影から、声が聞こえた。ワタルが目を向けると、痛みでしびれる視界の端に、派手な格好をした男――ヒロオが尻もちをついていた。全身をがくがく震わせながら、まだ両手を顔の前に掲げ指の窓から黒い塊を見ている。
 大きな黒い影は確かに、熊のようにも見えた。
 ヒロオの声に熊は反応し、振り向く。ゆっくりとヒロオに近づいていく。真っ黒な巨体に、目だけが爛々と月の光を反射していた。
「え…た、たすけ…」
 ヒロオはワタルに、助けを求める。ワタルは必死に起き上がろうともがくが、痛みでうまく足が動かない。
 熊は徐々に速度を上げ、ついにはヒロオに向かって突進した。熊の太い腕がヒロオに振り下ろされる。それが届こうとする直前、熊と比べればとても小さな、黒い影がヒロオを救い出した。
 ヒロオを抱えて駆ける影の背中に、勢い余って振り回された熊の腕、その指先がぶつかる。黒い影は弾き飛ばされながらもヒロオを守り、ワタルのそばで倒れ込む。影ももう満身創痍だった。
 ワタルは影に向けて、手を伸ばした。こんなにボロボロになっても誰かを助ける。自分の中に正真正銘のヒーローがいた。
「俺と一緒に、闘ってくれないか――」
 ワタルの指が影に届いた瞬間――まばゆい光が、あたりを真っ白に照らす。
 痛みが吹き飛ぶ。力が湧いてくる。
 光が更に強くなる。光に照らされて、何もかもが白く輝く。真っ黒な熊の輪郭すらも、徐々に削れて小さくなっていく。
 光が収まり、ヒロオが目を開けたとき、月夜に照らされて二人の仮面の怪人が向き合っていた。一方は白いスーツ。しかし先程までのシンプルなデザインから一転して細かいラインや突起が追加されている。尖った耳に赤い隈取り、まるで稲荷神の眷属の狐だ。
「おいおい、ここでフォームチェンジかよ…ついてねえ」
 もう一方の黒いスーツの怪人が言う。
 ヒロオは震える両手で窓を作り、二人の怪人を枠内に納める。
「配信開始」
 小声で指示する。タイトルは――
 
『月夜のストレンジャー』

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