「月夜のストレンジャー」第2話

「スーツアクターを目指していたんですか?」
 ウサが言う。
  黒い影に惨敗した翌日、自宅のリビングで広瀬ワタルと自称ダイエットサポートデバイスのウサが話している。
「目指していた、ってほど真面目じゃないよ。学祭の出し物のために、ちょっとだけやってただけ。しかも、結局披露せずに終わっちゃった」
 小さな頃は純粋にヒーローにあこがれていた。高校生になる頃には周りに合わせてヒーローごっこは卒業したと思い込んでいたが、心にはずっとくすぶっていた。大学に入って同じ趣味を共有できる仲間ができ、学祭でヒーローショーをやろうと盛り上がったとき、スーツアクターという職業があることを初めて知った。
 ヒーローショーの企画を断念したのはどうしてだったろう。苦い気持ちが胸ににじむ。
「あ、でもさ、結構ハードなトレーニングしてた自信はあるんだ。金も技術もなくてコスチュームはペラペラだったから、せめて自分のほうを盛ろうと思って」
「すごいです! 写真とかないんです?」
 ワタルの目が泳ぐ。ユキと結婚してから、大学時代を思い出すことはなかった。思い出さないようにしていたのかもしれない。
「写真は、残してない、かな」
 ウサはあからさまに肩を落として口を尖らせる。
「残念です…でもでも、いいことを聞きました。若い頃にハードな運動に取り組んでいた、つまり、運動の習慣があったということですね」
「今は、ないけどね」
「経験があるのとないのとの差は、とても大きいんですよ」
 ウサが人差し指を立てて言う。
「ところでワタルさん、『メタヴォイドを解消する』だけならあの影と向き合う必要はないんですけど…」
 ウサはうつむいていた。
「そもそも、影があんな風に暴れることは本当に珍しいんです。大抵は、話し合いとかでなんとかなる、ことが多くて。だから、無理に戦わなくても、わたしがダイエットのサポートするので、メタボじゃなくなれば、それでいいんじゃないかなって――」
「確かに、勝てっこないとは思うよ」
 ワタルはため息をついて言った。どうせ自分にはできない。そんな気がする。
 ウサは自分のことを心配してくれているのだろう。ただ追いかけっこをしただけで、全身が悲鳴を上げるほどの負荷が体にかかっている。きれいにカウンターが入ったおかげで、打撃によるダメージはほとんどない。
 正面から殴り合ったら? 自分の影と闘って死ぬことがありうるのだろうか?
「――でも、やってみたいんだ。サポート、お願いできないかな?」
 ワタルが差し伸べた手を、ウサが握りかえした。
 
 *

「こんな時期に移動だなんて、先輩、なんかやったんすか?」
 飯島ヒロオが広瀬ワタルに聞いた。
 強制的に分離された自分自身のネガティブな認知、黒い影との追いかけっこのせいで負った筋肉痛から開放されて数日ぶりに網崎市役所に出勤したら移動人事が発令されていた。税務係からイベント企画係へ。企画係は別棟にあり場所がわかりにくいからと、ヒロオが案内を買って出てくれたらしい。
「なんもしてないと思うけどなあ」
 頬に手を当てて考え込む。黒いモヤでワタルの手が見えなくなる。
「ああ、ストレンジャー…でも容姿を理由にした移動だなんて、今どきあるんすね」
「え、ああ――」顔を覆う黒いモヤのことをすっかり忘れていた。「ストレンジャーがありふれてるっていっても、市民対応する仕事には向かないってのはわからないでもないさ。それにもともと、企画係に配属希望出してたんだ」
 ヒロオが顔をしかめて振り返る。
「珍しいすね…自分は税務係に行きたいっす。花形じゃないすか。残業は多そうすけど」
「イベント企画のほうが派手でいいよ。それに仕事量はどこも変わらないんじゃない?」
 ヒロオはため息をついて前方に向き直る。
「うちはほぼノー残業ですよ。先輩、ウチの仕事にそんな夢見ちゃだめですよ、決められたことをこなすだけ――どうせ好きなことなんかできないんで」
 
 *
 
 移動初日の業務は『情報収集』だった。別棟の奥のちいさな部屋で、係員5名がめいめい手首の端末を操作して映像を眺めている。
「うちは基本、自由なんで。先輩も早く、なんかやること見つけないと時間持て余しちゃいますよ」
 ヒロオが小声で言う。
「打ち合わせとか会議とかないの?」
「ないっすね。年間やることは決まってるんで。大きなイベントの前後と予算時期以外は、だいたい『情報収集』が日課かなあ」
 ワタルは部屋を見渡す。ヒロオ以外はワタルのことを気にせず、それぞれが黙々と作業している。拒絶はないようだが、歓迎もされていないようだった。
「最近のホットトピックといえば――」
 ヒロオが自分の手首の端末を操作して言う。
「網崎市に突如現れた黒い影。それを追う白いスーツの男…なんてのはどうです?」
 市民が撮影して投稿した映像やニュース、その他関連する情報がヒロオの前に次々展開されていく。
「白スーツの方ははじめの一回きりしか目撃されてないんですけど、黒い影の目撃情報は結構あるんすよ。分析したら居場所わかったりしないかな、って思ってるんすけど」
 ワタルは自分の顔に黒いモヤがかかっていることのメリットを初めて実感する。モヤがなければ驚きを隠すことはできなかったろう。
「居場所なんかつきとめて、どうするのさ?」
 なるべく驚きを悟られないように、ワタルが言う。
「どうって…やっぱ自分の目で見たいじゃないですか」
 あらゆるものの見た目をカスタマイズでき、あらゆる情報を手元に取り寄せることができても、あるがままを直接体験することを求める者は多い。地方自治体がイベント企画に力を入れているのも、他市にはない魅力的なコンテンツを生み出すことができれば観光客による直接的間接的な収入だけでなく、長期的な税収増加まで見込めるためだった。
「それだけ? 仕事に関係は――」
「ないすね」
 ヒロオはきっぱり言った。
 
 *
 
 月明りの下で、白い人影が屋上伝いにビルからビルへ駆ける。変身したワタルだ。人目につかないよう地上を避けているのだが、パルクールを体験しているようで楽しくもあった。
「なにか作戦はあるんですか?」
 耳もとでウサが聞く。
「作戦は…ない」
 ウサのため息が聞こえた。
「あいつに会うまでに考えるから、影のこと教えてよ。話し合いで解決できるって?」
 満足に体を動かすことができなかった数日間、呼吸のコントロールを繰り返し練習した成果か、話しながらでも呼吸は乱れない。
「話し合い、というか…そもそもですね、影が消えることがゴールなわけですよ。消す方法は千差万別、ですが力でねじ伏せた例をわたしは知りません」
「マジか…先に言っといてよ」
「先生や私が説明する前に追いかけ回して、追い詰めた末に殴りかかったのはワタルさんです」
 言い返す言葉もない。が、はじめに「追いかけて!」という声を聞いた気もするのだが…
「ともかく、どうすれば消えるのかは、ワタルさんから生まれた影が何者なのかを知ることなしには考える糸口も掴めません。そこで、対話です。自分自身のネガティブな認知に向き合って、知る。自分と話し合いができれば、解決できるかもしれない――」
 自分から切り離された影が何者か? 自分は自分なんじゃないのか…
「あの影は、どうして逃げたんでしょう?」
「どうして、って――」
 どうしてだろう?
 影が逃げる直前、ワタルは影と闘うことをイメージしていた。
 闘った結果、ワタルは手も足も出なかった。なのにどうして逃げたんだろう。
 ――どうせ、できっこない
 声が聞こえた気がした。ワタル自身の声だった。
「次の谷間が目標地点、すぐそこです」
 ウサのナビに合わせて、ビルから飛び降りる。大きな音を立てて着地。片膝を立て、拳を地面に突き立てて、いわゆるヒーロー着地だ。痛みはなかったが、心拍は高速で脈打っている。
 顔をあげると目の前に黒い影。
「作戦は考えつきましたか?」
「ああ――話し合おう(どつきあおう)ぜ、俺」
 脱力して立っている黒い影に、拳を突き出してワタルは言った。

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