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学生時代
初めまして、はぎのです。
今更ですが自己紹介です。
幼いころは蝶よ花よと育てられました。しかし、中学受験に失敗後から母親からの暴言暴力が始まりました。
一応受かっていた学校に進みました。しかし、ある事件が私に襲いかかります。それは学校近くにある障害者施設の方からレイプを受けたのです。
このことを母親に話してもは信じてくれない、理解もしてくれない。私は1人自分を抱き支えるしかありませんでした。
高校に入り、彼氏ができます。
隠し事のできない性格なので彼には起きた出来事や母親のことについて正直に話をしました。
「辛かったね」と抱きしめてくれる腕がどれほど心強かったかわかりません。
しかし、そんな優しい彼は留学先で事故により亡くなってしまいます。その時は私も死のうと思いました。それ程までに辛いことでした。
なんとか立ち直り、専門学校へ進学します。
親からの金銭的援助や生活の支援は受けられず、全て1人で賄わなければなりませんでした。
平日は朝6時〜9時までコンビニでアルバイト。
その後、学校へ行き終わると他のアルバイトへ18時〜22時まで働きました。
土日は着ぐるみのアルバイトを1日中という生活を毎日続けました。
体力に自信はあったものの、勉強する時間がまったく取れません。さらに睡眠時間もだんだん少なくなってきました。
実家にはいたものの、いるだけ。
家事は料理以外は私が。
私の食事は用意されませんでした。
学校の相談室も利用しました。しかしながら、お金の問題や学費面は奨学金だけでは足りませんでした。
やがて、消耗し疲れ果て、専門学校を中退しました。
社会人になって
アルバイトやら何やらをするうちに、1人の男性と出会いました。
年は私よりかなり年上でしたが、惹かれるようになりお付き合いが始まりました。
そして、妊娠をしました。それを報告すると、彼に「おろしてくれ」と言われて絶望しました。
話し合いの中、お腹の子は意を汲んだように流れてしまいました。お骨が残るくらい大きくなっていました。
1人で生きていこう、そう思いました。
とは言え、スキルも何もない私。
手始めに派遣の事務で働き始めました。
楽しく過ごして仕事ができました。
あぁ、ずっとここにいたいなと思いつつ、正社員にならなければとも考えていました。
この頃から体調不良が続くようになりました。
派遣の仕事を2、3日続けて休み家で眠ることを繰り返しました。
疲れが取れないのです。
体もなんだか痛いな、事務仕事だからかな?なんて思ってました。
今思えば、その時の不調は病気のサインだったのだと考えられます。
同じ頃、とても好みの話しやすい男性と出会います(今のパートナーです)。
好きになってしまった。けれども、レイプを受けたこと、母親と関係、流産と私は不良物件もいい所です。
ただ、話はしっかりして振ってもらおうと思いました。
しかし、なぜか受け入れてもらえ、お付き合いが始まりました。
とても、とても嬉しかったのを覚えています。
だんだん体調不良が続くようになっていきました。
派遣の仕事も月4、5日休むのが当たり前になりました。
母親との軋轢も広がり、最早休む場所もないほどに…家で寝ている私に母親は口汚く罵ります。
最終的にはベッドに何か隠していると、包丁でマットレスを切り裂かれたこともありました。
付き合っていた彼(以後、パートナーと表する)に「お金を貸すから一人暮らしをしては?」と言われました。
あぁ私は家の呪縛から逃れられると思いました。
決して少額ではなかったお金と私のことを考え助けてくれたパートナーに今でも感謝しています。
母親には一人暮らしを許してもらえず、親戚に保証人の書類を書いてもらいました。
この頃、念願の正社員になれたこともあり張り切っていました。しばらくは休まず会社に意気揚々と向かっていました。
転職しスキルアップを図っていましたが、頑張るほど体は痛くなり、やがて首リンパが力瘤のように腫れ上がるようになりました。
そして疲れが取れず休みを取るようになっていきました。
ある医者は言います。
「唾石症(だせきしょう)です。」
調べてもらいましたが違いました。
ある医者は言います。
「唾液腺に問題がある」
これも違いました。
そして言われるのです。
「うちでは分からない。精神科に行ってはどうか?」
「婦人科を受診してみては?」
泣き叫びたかった。このだるさと痛みが、精神的に病んでもいないのに、精神科?なんで婦人科?と。
婦人科には行きましたが
「首のリンパ節が腫れる症状の出る婦人科系の病気はありません。」
と言われました。
精神科は敷居が高く行けませんでした。
ただ、マイコプラズマ肺炎に罹り内科に行き普段の病状を伝えた時でした。
『慢性疲労症候群じゃないかなぁ』
仕事は忙しかったので「あぁ、慢性疲労か」と考えました。そうじゃなかったと気がついたのは大分先の話です。
毎日重い体を引きずり、会社へ向かいました。
働かなければ生きていけないからです。
パートナーとのデートも途中から疲れてしまい「お茶しない?」なんて言って休み休みでした。
そんな時、ひょんな事から結婚話となり面倒だからとパートナーと親にも内緒で籍を入れました。
詳しくは、こちらの記事にも書いています。
嬉しくて嬉しくて、別々に暮らしてましたが何だか絆ができた気がしたのです。
1年後に結婚することを伝えようと話していました。
これが2010年のことでした。
東日本大地震
東日本大地震が起こりました。
パートナーの父親は福島第二原発で働く人でした。
高い線量の中、走り転んだりしたと後になって聞きました。
パートナーの母親は着の身着のまま、飼っていた愛犬と一緒に高い線量から逃げなければなりませんでした。
パートナーは「東京にいた方が、地元の人と連絡がつきやすい」と連絡の橋渡しやTVでの情報、地元の天気などを避難した人たちにSNSやメールで伝えていました。
私はと言うと、隣で震えている事しか出来ませんでした。
週明けから、私の仕事は続きます。
そして体調も良くありません。
気持ちも昂ったまま。
結婚生活
家族に結婚する(してますが)事を伝えパートナーの家族と顔合わせしました。
私の両親が弟と愛犬の話しかしない事に、引いているのが分かりました。
恥かしかったです。
そしてパートナーと一緒に住み始めました。
まだまだ私は元気でした、新しい生活を始めこれからも頑張っていこうと。
一緒に生活を始めて2ヶ月を過ぎた頃から、一気に私の体調が崩れます。
病との戦いの開始でした。
詳しくは、下記のページてす。
そんな中、2011年パートナーの母親が震災関連死しました。まだ若い52歳でした。
避難中の中、沢山の人が通夜葬儀に来てくれたのを覚えています。
私は何も出来ませんでした。
精々、火葬の直前「ありがとうございました!」と大きな声で言い、頭を下げ泣くパートナーを抱きしめたくらい。
私たちは、29歳でした。
病気
私の病気も別ページで書いた様に、山盛りです。
パートナーは介護疲れから鬱病を発症。
現在も闘病中です。
私の事がなければ、パートナーは元気でいられた。この事は無理をさせ過ぎた、病気だからってとわがままを言い過ぎた私が、今も苦しく思い、後悔する事柄です。
だから、今は安らかに過ごして欲しいと思いますし、好きな事をして欲しいと思っています。
泣く時は、苦しい時は手を繋いで一緒にいよう、そんな暗黙の約束があります。
今の生活は障害年金で成り立っています。
詳しくは、下記のページです。
身体障害者手帳は、とても助けてもらえるものです。
医療費の助成、車椅子などの装身具の助成、介護福祉サービスの利用、訪問診療、理学療法士さんのリハビリなど多岐にわたります。
(地域により違います。)
身体障害者手帳取得の手続きは、下記のページです。
終わりに
12年過ぎた現在も、病と戦っています。
長くなりましたが、自己紹介はこんな感じです。
結婚生活を普通に送れたのは、一緒に暮らしていなかった1年と一緒に暮らし始めて2ヶ月程度しかありませんでした。
パートナーには感謝しかありません。
ありがとう、ごめんね、愛してるよ。
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