「魂飛ばし」の実践を,私たちはどのように受け止めれば良いか

篠原信さんの「『魂飛ばし』が能動性を取り戻すまで」という記事 (元はTwitterの投稿) が注目を集めている。「私もそうだった」「そういう子どもに関わったことがある」と実体験に結びつけて語る人もいれば,子育てや教育の文脈で「勉強になった」「参考になった」と唸る人も多いようだ。

「魂飛ばし」「魂召喚」といった言葉選びのセンスもさることながら,このような現象を見落とさずに丁寧にすくい上げ,本人の学習意欲を引き出した実践には目を見張るものがある。しかしその一方で,この記事をナイーブなかたちで受容することには大きな危険が伴うと感じたのも事実だ。

ひとりの発達科学者・臨床家の所感に過ぎないが,この記事を読んで感じたことを書き留めておこうと思う。


「魂召喚」の事例の概要

この実践は,篠原さんが当時高校1年生のお子さんに出会うところから始まる。「大学に行かせたい」という母親の願いに反して,学業成績は芳しくない。過去にさかのぼってつまづいているポイントを探ったところ,九九はできるが割り算は怪しく,分数の計算が正しく行なえなかった。

しかし,問題の中核はそのような学習内容の取りこぼしではなく,別のところにあった。他者に見られていれば計算課題に取り組むことができるにもかかわらず,ひとりで放っておかれると,魂が抜けてしまったかのように呆然としてしまい,一向に課題が進まなかったのだ。

ここから,本人の「魂」を「いま・ここ」に呼び戻す「魂召喚」の実践が始まる。ドリルに取り組む様子をマンツーマンで見ているが,教えることはしない。その代わり,その子の「魂」がお出かけする兆候が見られた際には,テーブルを大きく叩いて「ほら!いま,魂が出て行ってたぞ!」と大声で伝えた。

このような実践を積み重ねることで,このお子さんは学習が楽しくなり,塾に通い続けるようになった。そして,最終的には倍率の高い専門学校に見事合格したという (詳細は当該記事を読んでいただきたい)。

この事例を通して,他者から教わるのではなく,「自ら学ぶ能動性」を取り戻すことが学習において非常に重要であることを学んだ,と篠原さんは述べている。さらに,この事例から得られた教訓を以下のようにまとめている。

・どこからつまづき始めたのか分析すること。
・つまづく前に戻り、少し背伸びすればできそうな課題を与えること。
・後は能動的に学ぶ姿勢だけ取り戻せるよう、アシストすること。この子の場合は、机を叩き、大声でビックリさせて「魂召喚」することだった。
以上のことだけやったら、勝手に伸びた。


「魂召喚」をナイーブに受容することの危険性

自ら能動的に学ぶ過程を重視する点,その過程をアシストすることが大人の役割である点には筆者も強く同意する。3つの教訓についても,「現状の丁寧な把握」「課題の適切なレベル設定」「学ぶ主体は子どもであり,大人は黒子であることの認識」が教育あるいは発達支援として一定理にかなっているということに異議を唱えるつもりはない。

特に,目の前の子どもの「できる課題」を特定し,「少し背伸びするればできそうな課題」をうまく見つけることは,教育や発達の現場において非常に重視されるスキルだ。この「独力でできる水準」と「少し背伸びすればできる水準」(具体的には,ヒントや他者との協同によって達成できる水準) との間にある発達のギャップは,心理学者ヴィゴーツキー (L. S. Vygotsky) が提唱した最近接発達領域 (Zone of proximal development) として広く知られている (最近接発達領域についてのより深い理解は,中村 (1994) を参照されたい)。

では,どういう点に懸念があるのか。端的には,以下の3点にまとめられる。

①「魂が抜ける場面」を見るだけで十分か (アセスメントの一面性)
②ネガティブな体験として括られうる介入のリスクをどう見積るか (アプローチの適切性)
③事例の要点をひとつのキーワードに還元するので十分か (サマリーの妥当性)

以降でこれらについて述べていくが,その前に断っておく。筆者には,篠原さん自身や,「魂召喚」の実践そのものを批判する意図はない。ましてや,この事例で登場するお子さんやそのご家族を批判するつもりなど毛頭ない (ご本人やご家族が希望ある日々を送っていることを心から願っている)。

ここでの筆者の主眼はあくまで,「魂飛ばし」の記事を読んだ人々が多少なりともこの事例および実践を内面化するときに,「こういう点に留意してほしい」と思う事柄を整理することだ。


①「魂が抜ける場面」を見るだけで十分か (アセスメントの一面性)

「魂が抜ける」現象を見落とさなかったことは,子どもを理解し,支援の方略を練るうえで非常に重要なポイントだったと思う。さらに,成育歴を聴取するなかで,「思い通りにいかない現実から逃避するために,想像の世界に自分を飛ばすことが習慣化しているのではないか」と見立てを深めたことで,支援の焦点が明確になったのだと想像する。もしこの見立てにたどり着かなかったら,「本人が怠けているだけではないか」「能力が足りないのではないか」といった誤った判断をしていたかもしれない (それはとても恐ろしいことだ)。

一方で,もしあなたがこのようなお子さんに出会ったら,「魂が抜けない場面」がないかを確認することも重要かもしれない。生活場面のすべてにおいて魂がお出かけしてしまう場合と,「いま・ここ」に集中できる状況が (非常に限られていたとしても) ある場合とでは,アプローチの選択肢はかなり異なるからだ。

もし前者であれば,取り得るアプローチはかなり限られる。典型的には,「何としてでも魂が抜けないように本人の意識を現実に誘導すること」が要になるだろう。ところが,もし後者であれば,取り得るアプローチの手札は各段に増える。たとえば,「本人が現実に留まることのできる活動のなかに,少しずつ教科学習に関連する要素を混ぜていく」といった方略の可能性が出てくる。あるいは,「魂が抜けているときに本人がどんな体験をしているか」を教えてもらうことも,アプローチの考案に役立つかもしれない。

何かしらの問題に直面しているとき,私たちは往々にして「できない場面」だけに注意が向いてしまいがちだ。けれども,「できている場面」があるかもしれない,といった想像力を働かせることで,子どもの理解はより多面的になり,面が増える分だけ突っつくことのできる箇所も増えていく。


②ネガティブな体験として括られうる介入のリスクをどう見積るか (アプローチの適切性)

今回の事例では,「魂召喚」のための儀式は「机を叩き、大声でビックリさせること」だった。しかし,この取り組みをそのまま別の事例に試すことは極めて危険である。篠原さん自身も「この子の場合」「その子によって」といった表現を用いて,これはあくまで個別の事例であることを強調している。

「魂が抜けている」ことを,他者から指摘を受けて自覚することは,当人にどのような心理的・社会的負荷をもたらすだろうか。「できない自分」を直視せざるを得なくなり,悔しさや不甲斐なさ,情けなさが込み上げてくるかもしれない。他者からの指摘や叱責を受けること自体が,恥ずかしさに繋がったり,本人の意欲をかえって削いでしまったりするかもしれない。もしあなたが類似の事例に出会ったら,こうしたリスクを考慮したうえで,その子に適したアプローチを探ってみてほしい。

篠原さんのすごいところは,「失敗 (を自覚) する機会を保障したこと」,そして何より「失敗を失敗で終わらせなかった」ことだと思う。「できる」ところまで必ず連れていく。その強い信念が,大泣きしながらも学習に臨み,やがてはその子の自信へと繋がったのだと想像する。しかし,別の子どもにも同じやり方が通用する保証はどこにもない。語弊を恐れずにいえば,このアプローチがうまくいったのは,幸運にも偶然が重なったからだ

どんな支援のアプローチも,いわば博打である。ある子でうまくいった方法が別の子ではまったく機能しないことなんてざらにあるし,同じ子どもであっても,条件が異なれば単一の方法の結果は大きく変わる。私たちにできることは,少しでもうまくいく可能性が高くなるように,できる限りの手を尽くして「イカサマ」することだ (そもそも「うまくいくとはどういうことか」に立ち返って考えるという論点もあるが,ここでは立ち入らずにおく)。

だからこそ,「イカサマ」に使えそうな手数は多ければ多いほど良い。問題を直視する状況を (リスクを承知で,できれば本人や家族と一緒に意思決定したうえで) あえて作ることが功を奏することもあるだろうし,上述したように,その子が現実に留まることのできる (教科学習以外の)「楽しい活動」のなかで達成感を積み重ねていく方が,遠回りに見えて実は最適な方略となる場合もある。

重要なことは,取り得るアプローチをひとつではなく複数考えて,そのなかでリスクやベネフィット,時間や労力などのコストを勘案しながら,より良い方法を自覚的に選択することだと思う。さらに,このアプローチの選択の過程には,可能な限り本人や家族にも参加してもらうことが肝要だ。


③事例の要点をひとつのキーワードに還元するので十分か (サマリーの妥当性)

今回の事例で鍵となる概念は,「能動性」としてまとめられている。しかし,この用語はなかなかに厄介であることにも気に留めておく方が良いだろう。

というのも,ひとくちに「能動性」といっても,その解釈にはさまざまな可能性が残るからだ。たとえば,自分で手を動かして計算したり書き取りをしたりする活動を指して,「自ら学ぶ能動性」を高めることができると主張する人がいるかもしれない。また,座学ではなく他者と一緒に何かをやったり,グループディスカッションしたりすることを指して「能動的な学習」(アクティブ・ラーニング) と呼ぶ人もいるかもしれない。このように,「能動性」という用語は,本人の心身の状態ではなく,活動それ自体に帰属されてしまう場面が往々にしてある

もちろん,今回の事例をちゃんと読めば,「能動性」は活動ではなく,本人に帰属するものであること,もっといえば,他者とともに育んでいくものであることは明白だ。しかし,キーワードだけが独り歩きして,もとの文脈から離れたところで定着してしまう可能性もある。キャッチ―で短い用語を使うことで,かえって取りこぼしてしまう重要な視点だってあるだろう。

たとえば,明示的に「教える」ことこそしなかったが,支援者が「忍耐強くその子のそばにいたこと」や「悔しさや情けなさを共に分かち合ったこと」は,本人が粘り強く課題に取り組むことを促したかもしれない。やや変な表現になるが,「教えない」ということをした,という関わり方も重要だったかもしれない。実践の過程において,どのような事柄に気をつけ,「何をして何をしなかったか」といった関わりの要素は非常に重要だが,「能動性」と一言で括られてしまうと,これらの要素はかなり見えづらくなってしまう。

また,本人が自ら課題に取り組んだり,魂を「いま・ここ」に留めていられるようになったのは,想像の世界だけでなく,「現実だって思い通りにしていいんだ」ということに気づいたからかもしれない。あるいは,「現実に差し迫った問題があるから,想像の世界に飛んで行っている場合じゃない!」と意識したからかもしれない。本人の内的な過程は記載がないので想像するしかないが,いずれにしても,「能動性」の一言には収まらない豊かさが隠れているように思えてならない。

こうした具体的で捨象しきれない部分も含めてエピソードを受け止めることが,逆説的だが別の事例への応用可能性を高めうるのだと思う。


終わりに

上述の通り,このnote記事を執筆したのは,篠原さん自身や,篠原さんの実践そのものを批判したかったからではない。お子さんと正面から丁寧に向き合い,目標に向けて最後まで伴走したことは本当にすごいことだと思うし,私に同じようなアセスメントと支援ができただろうかと想像するに,自信をもって首を縦に振ることなど到底できない。ここで登場するお子さんやそのご家族が,この実践に対してポジティブな体験の括り方をしているなら,なおのこと素晴らしいと思う。

ただ,強いて篠原さんを批判するとしたら,できればここで挙げたような留意点を篠原さん自身から発信してほしかった,ということになるだろう。もちろん,自分の実践に対して反省的に振り返ることは容易ではないし (うまくいった手応えのある実践ならなおさらだ),今回の記事がこれほどまでに拡散されるとは予測しておらず,単にご自身の実践を言語化してみただけだったのかもしれない。それでも,この記事を読んだ人が何を考え,その人の次の行動がどのように変わりうるかを想像すれば,いくらかの留保や注釈は付言できたのではないかと思う (当然,この批判には自戒も込もっている)。

この手の問題は,子どもに関わる実践の現場に身を置く人間には常につきまとう。むしろ,常に自分につきまとうように意識することこそ重要なのかもしれない。もし機会があれば,篠原さんご自身とも議論できれば嬉しく思う。


謝辞
本記事執筆にあたり冷静な目でコメントをくださった真鍋公希さんに感謝申し上げます。


2021.08.06 追記
哲学者の谷川嘉浩さんが,この実践についての記事を執筆されています。個別の実践例を読み解くときの「読み手や大人のリフレクション」の問題として,重要な指摘と注意喚起がなされています。

また,元記事を執筆した篠原さんからも以下のような注意喚起がなされています。ただし,今回の実践の紹介の仕方については,単に「同じ方法を安易に真似しないでね」ということ以上に留意すべき点があるように思います。


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