阪神・淡路大震災から30年。小学6年生の私の記憶。

阪神・淡路大震災から30年が経過しようとしている。当日12歳、小学6年生だった私の記憶をここに記す。

成人の日、三連休の最終日である1995年1月16日。園田にある親戚の家で餃子パーティーをしていた。どの家族の餃子が一番美味しいかを競うパーティーだった。会の途中、小さな地震があり、みんなで「珍しいな」と話していたことを思い出した。

園田からの帰路、10時頃。阪神高速神戸線を通りながら、空を見た。快晴で星がたくさん見えた。月がとっても綺麗だと姉と話したことを覚えている。パーティーから帰宅し、眠りについた。母、姉、妹の3人は別室、父は1人部屋だった。私はリビングの端の方で1人で寝ていた。

17日未明。
突然の突き上げるような揺れ。表現するなら、フライパンの中の具材が転がされ、ひっくり返されるような感覚に襲われ目が覚めた。目の前は真っ暗だった。別室から母、姉妹の叫び声と鳴き声が聞こえてきた。父は自室から大声で大丈夫か!と叫んでいた。不思議と私は冷静だった。みんなの声を聴きながら、母達のもとへ行こうと思っていたが、身体がどうにも動かない。あとからわかったことだが、置き型の簡易クローゼットが私の方に倒れてきて、偶然上半身がその隙間にすっぽり収まり、その上にタンスが倒れてきたらしい。膝からしたが挟まって動けなかったようだ。両脚をぐりぐりねじりながら、少しずつ脚を抜き出した記憶がある。ようやく脚が動かせるようになり、簡易クローゼットの隙間から這い出した。

母達のもとへ駆け寄った。父も合流していた。ふと天井をみた。母達の寝ていた部屋のタンスが、天井を突き破っていた。幸い誰も怪我はしていなかった。別宅の祖父母の無事も確認された。ベランダから西をみた。六甲道付近では大規模火災が発生しているようだった。am5:46のできごとだった。その日の記憶はここまでしかない。記憶が繋がっているのは、1月17日の夜からだ。父の提案で、車で寝ることになった。祖父母は家にとどまると言っていた気がする。震災の当日は、家族5人で車で寝た。寒さと狭さで、ほとんど眠れなかった。

●2日目
電気、ガス、水道は止まっていた。食べ物と水がない。父が食べ物を探してくるよう、私と姉妹に伝えた。近くのローソンに行った。水、食べ物は全て空になっていた。次に、洋菓子店Hに行った。当日そこで勤務されていたKさんがいた。焼菓子が余っていたので、焼菓子を少し分けてもらった。家族で少しずつ分けて食べた。この日の晩は、近くのお寺に集まった。近所の方も集まっていた。おじちゃんが日本酒を持ってきた。瓶にひもを垂らし、火をつけようとしていたが、つかなかった。代わりにお寺のろうそくで、灯りをとった。家族以外の方達と話ができて、少し安心した。本堂で寄り添って寝た。すぐ横に亡くなられた方が横たわっていた。

●3日目から
山側のお寺は電気が通っているということがわかった。しばらく、そのお寺に避難することになった。被災後、初めてテレビを見た。亡くなられた方の数が表示されていた。多数の亡くなられた方がいることを把握したが、この時点では、未だに規模はよくわかっていなかった。自宅近くの救急病院(当時)から、たくさんのご遺体が運び出されていたのを目にしていたので、大変なことが起きたんだと言うことは体感的に感じていた。※最終的に6,434人もの方が亡くなられていた。

お寺で数日を過ごしている間、父は必死で社員の全員と連絡をとろうとしていたように思う。1週間が経過し、ようやく最後の1人と連絡が取れ、社員全員の無事が確認できた。長田に住む社員だった。そして、この日から自宅に戻ることになった。

一部損壊。自宅は危険ではあるが、寝泊まりできる状態だった。いつだったか、小学校に行ってみた。たくさんの避難者の方が学校で寝泊まりしていた。何か手伝えることはないかと思い、先生に尋ねてみた。「手伝えることはない」と言われた。そして、「親友のO君の家が全壊だ」と聞いた。O君の家に行った。親友の家は、となりの家にもたれ掛かっていた。1階は何とか空間があったが、2階には上れそうになかった。幸いO君家族7人は全員無事だった。1階に冷蔵庫があった。O君が卵を取り出し投げはじめた。私もふざけて、O君と卵を投げ合っていると、おばちゃん達が笑っていた。

10日が過ぎたころだったか、電気が通った日。姉妹と家の前を歩いていると、前のビルの屋上の変電室?が突然爆発した。つるはしをもった自衛隊の方に事情を説明した。火災が発生していないかを問われ、発生していないと答えた。隊員の方は、通報しておくと言っていた。同じ頃、ガスがきた。直後に、近所で火災が発生した。そして、再び数日間、ガスが止まった。

2週間がたった頃、地域の銭湯(城内温泉)が湯を炊いたと聞いた。地震発生後、初めてお風呂に入りに行くことになった。到着すると、ほぼ全壊のへしゃげた建屋の浴槽にお湯が張られていた。久々に服を脱ぐ。白のブリーフパンツが、垢で茶色く汚れていて驚いた。救援物資の水の要らないシャンプーで頭は洗っていたが、痒くてたまらなかった。その頭を洗い流すことができた。本当に気持ちよかった。そして、この銭湯はその日を最後に閉業した。

2月直前、母にしばらく転校することになったと伝えられた。いわゆる疎開だった。西区のいとこの家に姉妹と私のこども3人でお世話になった。初日の集会、朝礼台で挨拶をした。私たちきょうだい以外にも、あと数人同じ日に転校してきたこどもがいた。受け入れ先の仲間は、みんなとても親切だった。毎日のように町を案内してもらい、励ましの言葉をもらい、従兄弟とも多くの時間を公園で過ごした。また、伯母にもよくご飯に連れて行ってもらった。当時は幼く、なにも考えていなかったが、今は本当に感謝している。

3月に入り、母から自宅に戻るよう連絡がきた。どうやら、学校が再開するようだった。疎開先の樫野台小学校では送別会が開かれた。折り紙や手紙、寄せ書きをもらった。新しくできた友人からは、最後の日にプレゼントを手渡された。涙が溢れてとまらなかった。

3月1週目、地元の灘区に戻った。町は少しだけ片付けが進んでいた。幼い頃からの遊び場、和田市場に行った。何もかもがぺしゃんこになっていた。家業がどうなっていたのかは当時は全くわからなかった。あとから聞いた話では、コーヒーの焙煎を工場が再開できるまでの数ヵ月間外部委託し、何とか仕事を再開できたようだ。

少し時間を戻す。震災直前、1995年1月8日に3学期始業式が行われた。母校である福住小学校は、前年から校舎建て替えを行っていたため、元々私たちはプレハブ校舎で授業をしていた。そして、成人式の三連休明け、1995年1月17日に新校舎へ引っ越すために、連休前にみんなで引っ越しの準備をしていた。まさに新校舎に入る当日に、阪神大震災が発生したことになる。

疎開先から戻った私は当時、小学6年生だった。3月1週目。卒業まで残り10日ほどしかなかった。学校は避難者の方で埋め尽くされていたため、プレハブ校舎で授業が再開された。授業と言っても、残りわずか。そのほとんどが卒業式の練習だった。体育館は避難所で使用できず、各々教室で練習が行われた。

卒業式まで残り1週間になった頃。先生をはじめ、保護者や避難者のご協力で、6年生だけが新校舎、新しい教室に入ることができるようになった。最後のひとときを、プレハブではなく校舎で、卒業式を母校の校舎でできるようにと、皆様のお気持ちで実現されたらしい。新校舎は、暖房がついていた。そして、教室も廊下も油引きの木材ではなくなっていた。懐かしさはなかったが、自分達の学校に入れた!と言う喜びを今でも覚えている。何よりも6年間を共に過ごしてきた仲間に久しぶりに会えたこと、時間をまた共にできることが本当に嬉しかった。

1週間ほどを新校舎で過ごし、いよいよ卒業式の日。ほとんど練習もできなかった卒業式が開かれた。新しい歌はほとんどなく、今まで歌ってきた歌に学校生活の思い出や感謝の言葉を織り混ぜた式だった。式の並び、私の位置はスポーツも良くでき、勉強がとても得意なT君の上段だった。歌の途中、T君の肩が震え出した。何気なくT君を覗き込んだら、泣いていた。「エースが泣いている」と思ったと同時に、私も涙が溢れてきた。保護者や先生達を見た。そのほとんどが、涙を流していた。そして、私たち6年生の歌とセリフは、みんな涙と嗚咽で練習どおりにはうまく進まなかった。式が終わり、運動場に出るとき。本来なら体育館に避難されていた方が、私たちのために廊下に出てくださっていた。そして、避難者の皆様の手作りの花のアーチを潜りながら、外に出た。今でも鮮明に思い出される卒業式だった。

震災から30年。震災直後から中学生1年の夏休みまで、約8ヶ月を一緒に暮らしてきたO君は、心から親友と思える数少ない仲間で、今でも共に小学校で震災の話をしたり、家族ぐるみで付き合っている。だんだん震災を経験していない人も増えてきた。私たち震災経験者にできることは、語り継ぐこと。家族や仲間、日常のありがたさ。生きていることの辛さ、だからこそ生まれる喜びや、命の尊さを伝えられたらと思い、当時の私の記憶を記します。阪神大震災により、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

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