一楽・二萩・三唐津
いつの頃からか言い慣らされてきたこの言葉は、茶道の歴史における好みや格付けを物語るものです。
二萩と言われる萩焼は、桃山時代に千利休によって確立された「侘び茶」の流行にともない、にわかに脚光を浴びた「高麗茶碗」の系譜を引く茶陶として広く知られています。
また萩焼の呼称は寛永十五年(1638)の『毛吹草』からと言われており、茶会記では正保四年(1647)の『松屋九重会記』で、江戸時代を通じて藩街では「萩焼」と呼称されています。
地元の藩内では「松本焼」、「深川焼」、「三ノ瀬焼」と産地で呼び分けれれていました。一般に萩焼と呼ぶようになったのは明治以降内国博覧会等に出展するようになってからのことと考えられています。また、松本萩(萩市)、深川萩(長門市)と区別する風習も生じました。