出会いは石ころのようだと伝えられたお話
出会いとは石ころみたいなものだと、言った方がいました。
当時わたしは丁度20歳くらいで、その方は40代くらいだったと思います。
出会いは石ころみたいなもので、そこかしこに転がっている。多くの人が、石ころを石ころとして、通り過ぎていく。でも、見過ごした石ころは本当はダイヤモンドかもしれない。それは磨いてみないと分からない。
もう10年近く前なので、正確には覚えていませんが、こんな感じだったと思います。
大学生だった当時は、石ころとダイヤモンドを社会的地位の高低の例え話だと思っていました。
よく聞く、
“立場によって態度を変えないこと。
人を立場で判断して軽んじていると、その人が立場を得る時が来るかもしれないよ。”
そんな話かと思っていたんです。
でも、あれから10年経った今、あの言葉は、もっと違う意味を含んでいたのではと考えるようになりました。
わたしにとってダイヤモンドのような輝きを持つ出会いとは、偉い人との出会いなのか?有名な人との出会いなのか?
わたしが大切にしている出会いや関係の中に、地位や知名度のある方もいらっしゃいます。
でも〝だから〟その出会いを大切にしているわけじゃない。
少し大人になったわたしは、あの日の言葉を今はこう再定義しています。
石ころでもいい、ガラスの破片でもいい。わたしにとってのダイヤモンドのようにトキメく出会いは、どこにでも転がっている。だから、その石を関心を持って拾い上げ、敬意をもって磨き上げよう。
今のわたしの人生を作り上げているものの始まりは、本当に何気ない出会い。
今のわたしのビジネスパートナーである、横塚まよちゃんとの出会いは、前職のオフィスがご近所さんだっただけでした。
旦那さんとの出会いは、大学時代の先輩と東京で再会したことがきっかけ。その後先輩が何度か飲みに連れていっていただいた中の一度に、彼が参加してました。
どの出会いも、はじめから何かを期待していたわけではありません。
ただ話をするのが楽しくて、より知りたいと思った。知れば知るほど、好きになって、大切になった。そんな出会いが繰り返されて、いまがある。
ふたりの例だけでなく、わたしにとっての大切な人たちとの繋がりは、関心と敬意の先にあったようはものの気がします。
特に意識してなかったけど...。
今思うのは、出会ったときに、それが石ころなのか、ガラスの破片なのか、まさしくダイヤモンドなのか。それは関係ない。
一緒に過ごす中で、気付いたらダイヤモンドだったほうが、わたしは楽しいし、気持ちいい。
だから「この人とダイヤモンドを見つけられたら楽しいな」と思いながら、出会いを繰り返す。
好きな人と楽しく過ごせるとか、わたしどんだけ幸せなんだよ。ありがとう、人生。
ここ最近、ご縁に感謝することがたくさんあったので、ふとこの言葉を思い出し、文章にしてみました。改めて、ありがたい生活送ってます、本当に。
わたしの大切な人たちにとっても、わたしとの出会いをダイヤモンドだと感じてもらえるように、自分自身も磨いていかなくては。頑張ります!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?