天牌別伝 一
はじめに
この『天牌別伝』は、漫画『天牌』の二次創作小説です。
全五話からなるショートストーリーですが、皆様が作品やキャラクターに持たれているイメージとは異なるかもしれません。
あくまで一読者、一ファンの妄想であることをご了承ください。
作品への想いは、たくさんこめました。
一
沖本瞬は、牌山に手をのばした。
牌を掴めない。
手は確かに届いているはずなのに、指先が牌をすり抜けてしまう。
――なぜだ。
何度も何度も、瞬は牌を掴もうと試みたが、一向に掴むことができない。まるで、自分が透明人間にでもなってしまったかのようだ。
(ツモれっ……。ツモるんだっ……!)
目が覚めた。
布団の中で、瞬は右手を天井にむかってのばしていた。
「夢か……」
呟いて、瞬は上体を起こした。目覚まし時計を見ると、セットした時間の十五分前だった。
布団を畳み着替えると、瞬は仏壇に線香をあげ、手を合わせた。額縁の中で、新満正吉がほほえんでいる。
赤坂の『天狗』決戦から、そして新満の死から、一年が経った。
優勝したのは、柏木裕也だ。
決勝戦は拮抗した闘牌で、すべてが紙一重だった。それでも柏木は、三國健次郎、鳴海弘富、北岡静一といった強者たちを相手に、最後まで粘り強くも鋭い麻雀を打ち続け、勝利を手にした。そして、全員で互いの闘牌を讃え合った。
さらに、柏木を見届けに来た松本樹一の口から、衝撃の事実が告げられた。
柏木は、黒沢義明の血を引いた子であると――。
八角五郎が柏木のことを『KJ』と言っていたが、それは黒沢ジュニアの略だったのだ。
『麻雀職人』の遺伝子を継いだ男の優勝に、運命的なものを感じ、瞬の心はふるえた。黒沢との最後の対局も、『天狗』だった。
――義明の面影があるのぉ。
そう言って、新満は柏木の肩を抱き、そのまま眠るように息を引き取った。安らかな表情だった。
――ドアがノックされる音で、瞬は想念を切った。
ドアを開けた。北岡だ。
「よう、久しぶり。ちょっと早かったかな」
「いや、大丈夫だ。元気してるみたいだな」
「まあね」
北岡の人懐っこい笑顔に、思わず瞬の顔もほころんだ。
瞬は北岡を部屋に招じ入れた。やんちゃな外見に似合わず、靴をきちんと揃えたことに、瞬は感心した。
「……いま、意外だと思っただろ?」
「えっ、ああ……。コーヒー、飲むか?」
言葉を濁して、瞬は台所へ歩いた。北岡の洞察力には、昨年の対局でも驚かされた。まるで、人の心が読めているかのようだ。
両手にコーヒーカップを持って居室に戻ると、北岡は仏壇に手を合わせていた。
「インスタントで、悪いけど」
瞬は、コーヒーカップをちゃぶ台に置いた。
「しっかしほんと、殺風景な部屋だよな。狭いしさ」
コーヒーを啜りながら、北岡が言った。
「どうせ、部屋では寝るだけだから」
「麻雀がすべてか。見あげたもんだぜ」
「北岡は、イチゴ農園を続けてるのか?」
「ああ。同じイチゴでもさ、時間帯によって表情が変わる。どうしたらいいか、何をして欲しいのか。イチゴの気持ちになってその都度考えるのが楽しくてさ」
「……だから卓上でも読みが鋭いのか。忙しいのか?」
「元暴走族だった連中が手伝ってくれてさ。いまじゃだいぶ仕事を任せられるようになったよ。最近のオイラはハウスや土壌の改良や研究とか……。ま、すべては野島さんがまとめてくれるおかげだけどね」
「すごいじゃないか。俺は麻雀以外のことはさっぱりだから」
「だけど、その麻雀にすべてを注いでるだろ。俺は、おまえのこと尊敬してるぜ」
北岡の言葉に、瞬は少し照れくさくなった。
「そろそろ行くか」
コーヒーを飲み終え腰を上げると、瞬は仏壇へむかい、新満の遺影を風呂敷に包むと、バッグにしまいこんだ。
「なあ沖本、メシまだだろ? どっかで食ってこうぜ」
部屋を出ると、北岡が言った。
「ああ、そうしよう」
「運が上がりそうなやつにしようぜ。天丼とかさ」
北岡が、歯を見せて笑った。ほほえんで、瞬は頷いた。
歩きながら、瞬は空を見あげた。
今日の対局にふさわしい、澄み渡った空だ。