今さらだけど『大神』考察 その1
【その1 僕の大神回顧録&あのラストバトルはなんだったのか】
※この記事はゲームのネタバレを含みます。
2006年4月20日、プレイステーション2のソフトとして発売された『大神』
当初は売り上げが伸び悩むも、後に「全世界」で高い評価を獲得した実力派ゲームである。
名作ではあるが、自分には縁がないと思っていた。どんなゲームかもいまいち分かっていなかった。しかし数年前。プレステ3の『大神 絶景版』が安く売られていたのを見かけ、気まぐれに購入してみた。
可愛いワンコが主人公で『筆調べ』と言うシステムから「謎解きパズルのようなアドベンチャーかな?」と思っていたが、ところがプレイしてみるとまさかのRPGだったことに驚いた。しかしながら優しい世界観と魅力的なキャラクターに引き込まれ、僕は夢中でストーリーを進めていた。
ところが途中、コントローラーが壊れてしまうアクシデントが発生。強引にプレイし続けるも、オキクルミとの戦いをもって僕の大神は中断せざるを得なかった。これからプレステ5も発売されるとか噂もあった頃、あえて3のコントローラーを買うのもな… なら続きは、暇なときに動画でも見ればいいかな。そんな感じで、僕の大神は長い眠りにつく。
だが今年はその15周年になると言う話を聞いて、なんとしてもクリアせねばと思い立った。ついに新しいコントローラーでウエペケレに向かう。そそこで大神のストーリーは山場を迎え、エンディングまでイッキに駆け抜けてしまった。ラスボス戦のあのBGMが流れ出した時は「なるほどこれは負ける気がしない。てか負けられないだろ。」と熱くなった。それがついこの間の出来事である。
しかし、エンドロールを見ていた僕は、ふと思ってしまった。
「あれ、あのラストバトル、なんであーなったんだ?」
なんせこの大神というゲーム、主人公が犬であるため何も喋らない。なので、これまでは会話が必要なときは相棒が代弁してくれるようになっていた。しかし、ラスボスでは敵との一騎討ち。そのラスボスまで一言も喋らないもんだから、最後の最後で圧倒的に情報が少なく、思い返せば雰囲気だけで進んでいた印象になってしまったのだ。
そして具体的に感じたのは「なんでよりによって100年に1度の玄冬の蝕なんて日に戦うんだよ…!」と言う疑問である。この瞬間から、大神に対する様々な謎が浮かび上がって止まらなくなった。このゲーム、真相を明かしているように思わせておいて、分からないことが多すぎる…!
そもそも100年に1度の「玄冬の蝕」とはなんなのか。「100年」というのは無視できない数字だ。ヤマタノオロチの復活はイザナギ伝説から100年だったが…。ウエペケレでは「太陽が隠れ温もりが失われてしまう」と言う話だったが…。現象を見れば、いわゆる日食であることが分かる。
先に結論を考えてみると、常闇の皇を倒せるのはこの100年に1度の玄冬の蝕の時だけなのではないか、と言う仮説が浮かんでくる。 闇の力が最も濃くなるが故に。
方舟ヤマトでウシワカが常闇の皇と戦っている際、やってきたアマテラスに対して「全然見えないか」などと言っていた。この時点では、戦っているウシワカが攻撃を受けている様子もなかった。恐らくまだ「お互いにダメージを与えられない状態」だったのだと思われる。ところが、蝕が始まったとたん常闇の皇は姿を現しアマテラスらに襲い掛かる。この瞬間になって初めてお互いに干渉できるようになったのだ。そしてそれは、常闇の皇を倒すことができる唯一のチャンスだった。たとえ闇の力が増幅し、圧倒的に不利な状況だとしても、戦いのチャンスは今しかない。だからこそウシワカは、アマテラスが来る前に「自分ひとりの力でどうにかしようと思った」のではないだろうか。
ではなぜ、玄冬の蝕は常闇の皇を実体化させたのか。かつて月の民は、この常闇の皇によって滅ぼされた。そのため現在では、月そのものが妖怪に支配されていると思っていいだろう。その月が太陽を覆い隠す。禍々しい月は世界を暗闇に陥れ、現世とあの世の境界線が消える。そして常闇の皇は姿を現したのではないか。
そしてこの100年に1度の瞬間にしか倒せないからこそ、ヤマトは氷に閉ざされ封印されている必要があった。その封印が解かれたのは、まさに最終決戦の為。
ラストバトルでは、筆神らの力を奪われながらも、諦めずに戦うことでその力を取り戻してゆく。そしてアマテラスはついに勝利…したかと思えたが、常闇の皇は倒せない。倒せないと言うより、瞬時に復活したのかも知れない。そして今度こそはと、すべての筆神を消滅させる。闇の力はそれほどまでに増幅されていたのだ。もはやアマテラスでは敵わないのか。いや、そんなことはない…。イッスンの働きにより集まった願いの力が光となり、アマテラスは太陽の力を取り戻す。太陽は昇る。そして光は闇を払い、常闇の皇はついに光の中に消え去るのであった。
以上が大神ラスボス戦における「何故?」の、僕なりの解釈である。ところでラスボス戦と言えば、その手前ではかつてのボスたちと戦うことになっていたりする。ここでも、色々と疑問は残り、それが考察となって頭のなかで渦巻いているのだが…。長くなってしまうので、それはまた今度にしよう。