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6/11 佐野徹夜『さよなら世界の終わり』

僕は、死にかけると未来を見ることができる。

校内放送のCreepを聴きながら、屋上のドアノブで首を吊ってナンバーズの数字を見ようとしていた昼休み、親友の天ヶ瀬が世界を壊す未来を見た。彼の顔を見ると、僕は胸が苦しい。だから、どうしても助けたいと思った――。いじめ、虐待、愛する人の喪失……。死にたいけれども死ねない僕らが、痛みと悲しみを乗り越えて「青春」を終わらせる物語。生きづらさを抱えるすべての人へ。
https://www.shinchosha.co.jp/book/180190/

 死にかけると、未来が見える。死にかけると、死者と話せる。死にかけると、洗脳できる。
 そんな特異を持つ、一般に「青春」と呼ばれる権利がある日々を生きる彼らは、しかし、全くの死にたさの中を生きている。信号が青になったから、というような態度で、死に向けて歩いていく。

 いじめのリアリティ、自死への躊躇のなさ、”更生施設”への収容──こんな場当たり的な過酷はこの際、どうでもよいのだろう。離人症じみて淡白な描写はばっさりとわれわれの言葉をそぎ取ってゆく。むごいね、嫌だね、でもだからこそ、幸せでいて欲しい……などとという端的な希望は退けられていく。というかそもそも、そんなものを望むなら、この小説は不要だ。

 何よりも重要なこと、それはどこまでも「僕」たちが生きてしまうことだろう。死なないでいることだろう。

 生きている間じゅう、ずっと消えてなくなりたかった。
 だからこれが僕の望んだ結末なんだと思った。
 そして僕たちは、この世から、消えた。
 その間、僕はずっと安心していた。(191頁-192頁)

 彼らにとって死は安らいなのであり、何度も何度も何度も何度も、そこへ向かって落ちていこうとする。だが、どうしても、死ぬことができない。

 それは決して、主人公が死ぬとお話が終わってしまう、という理屈で死ねないのではない。
 実際のところ、死ぬ。いや、それが実際のところかは措いておいて、ただある虚無・本物の暗黒のような場処に、ぽつねんと放置される瞬間が来る。「暗淵」というのだろうか。「デス・ストランディング」のビーチのように、時間的にも空間的にも深すぎるどこか。
 そこへ何かが突然と「希望のようなもの」を星の弾けるように生み出し、見果てぬ強さで言葉通りの生へと引き戻してくる。引きつけていく。強烈に。そして、最終的には「生きろ」という結論になる。
 当然だろう。何故なら、『さよなら世界の終わり』が小説としてここにあるのだから。

 そのとき僕が書き始める前に唯一決めたのは、遺書のつもりで小説を書こう、ということだけだった。他は何も考えてなかった。(あとがき、229頁)

 この小説は死を梯子にして、その呼吸を始める。
 それは、身動きも取れないような暗さ、微睡み、絶望、息苦しさ、倦怠が、いつしか止み、未だ知らない、存在するかどうかも不確かな曙光を信じ、祈り続けるべく踏ん張り始めるということだろう。来ないかも知れない、存在しないかも知れない、それでも街角でも気軽に見られる「幸い」が自分に到来すること=まさに希望を信じなければならないという絶望──その只中で、吸って吐いてを繰り返すということだ。
 小説は生まれた。絶望に漂うほかない、希望の残り香を辿るように。
 その結果自体が、主人公である「僕」の生を、とにもかくにも、この小説の終わりまで運び切ることのできた根拠なのだと、思っている。
 「世界の終わり」に暇を告げることができた根拠、とも。

 そう考えると、世界の終わりに別れを告げるのも自然な帰結だろう。何故なら、自分の死は、世界の終わりではないからだ。
 だからこそ、作者は遺書のつもりで小説を書く。
 だからこそ、「僕」は時代遅れな手紙を瓶に詰める。

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