2023/04/30 推敲の不可能性と書きあぐね続けること
先日、ノーベル賞作家の大江健三郎さんの訃報を目にしたとき、ちょうど読んでいたのが新潮文庫の古井由吉『辻』だった。巻末に古井由吉と大江健三郎の対談が載っていた。折しも。2020年の2月に古井由吉氏の亡くなった時、ちょうど氏の翻訳したロベルト・ムージルを読んでいたのを思い出す。
その対談の時点でふたりは自らの寿命を逆算して何を読んでいくか、という語りをしている。そこには純粋な読書への兆しを感じる。古井氏は太平洋戦争の空襲を経験しているし、大江氏はある意味で日本の戦後史、まっただ中を通り抜けて来た人だ。そんな長い人生への報いとして、読書をするための「静かな生活」が与えられるとすれば、それだけのために生きる意味のあるのではないか。ほとんど私勝手乍らにそう思うことにしている。
死は怖れるとも、当面の間、この言葉に励まされる。
対談の終わりに、小説の起源について話が出ている。
ドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』も終盤、カラマゾフの親殺しについて、弁護士、検察双方の華麗な見解が披露される。
西欧的な文脈で見れば、結局、全てを見通せているのは神しかない。逆に言えば、全てを知る者がいる、という安息は代えがたい。
ゆえに推敲の不可能性がつきまとう。永遠に文章に斧鉞を加え続けること。書きあぐね続けること。どこかで投了しなければならないこと。更に次の仕事を続けること。それが生に通じていく。
途方もないことだけれども、見事に成し遂げた先達がいることを見ると、それ自体が希望に映る。
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