統合失調症の私が伝えたい5つの事Vol31

42 東京での暮らし

房恵と、直樹の妻の知佳が、私の暮らすマンションを探してくれていた。マンションは、房恵のマンションや、直樹の店の近くだった。日当たりもよく、広さも十分だった。ただ、家賃が、13万5千円と、とても高かった。私は、落ち着いたら、直樹の店で働くつもりでいた。
 

必要な電化製品を買いに、房恵と、有楽町のビックカメラに行った。買い物を終えて、二人で昼食を食べていると、房恵が言った。
「体の悪いあんたが、うちの店で働くのは、無理やわ。従業員も気を遣うし。ちょっとゆっくりしたら、どこか、働くところを探し。体がよくなったら、うちの店で働いてくれたらいいから」
 (家賃を払えるだけの収入がもらえる仕事が見つかるだろうか?)
私は、すごく不安になった。
 

東京では、マンションの近くの心療内科に通った。心療内科ではいけなかったのかもしれない。私の病気には精神科でなくてはいけなかったのかもしれない。でも、土地勘のない東京で、精神科を探すのはかなり難しかった。今のようにスマホもなかった。
 

私は、それまでの失敗から、
(薬はきちんと飲まなくてはいけない)
と思っていたので、とにかくその心療内科に通って、薬を処方してもらった。事務的で、人間的な温かみにかける医師だった。

しばらくして、私は、月島のもんじゃ焼き屋の、パート募集の張り紙を見つけて、その店で働き始めた。夕方5時から、夜10時までの仕事だった。 仕事を終えて眠ったら、子供たちが幼い頃の夢をよく見た。私の隣で子供たちが、眠っている。目が覚めて、それが夢だとわかると、とても淋しくて、悲しかった。自分が失ったものの大きさに、押しつぶされてしまいそうだった。
 

一人暮らしの淋しさから、私は岡山でカフェをやっていた男友達の保に電話を掛けた。保は、隆道の友達でもあった。大智や亮純を連れて、家族でよく彼の行っていた店のマスターだった。私は淋しさと不安から、保に、
「東京に出て来ないか?」
と、言った。二人で働けば、家賃を払って生活していけるだろうと思った。そして、淋しさも紛れるだろうと思った。保は、岡山での仕事を辞めて、東京に出てきた。私たちは、一緒に暮らし始めた。愛というのではなかったが、二人での生活は、それなりに楽しかった。二人で明治神宮に行ったり、飲みに行ったり、楽しく過ごしたこともあった。

 私は、もんじゃ焼き屋のパートに行って、保は、ハローワークに通って職探しをした。でも、なかなか保の仕事が決まらなかった。
「家賃を折半しよう」
と、二人で決めていたのだが、それもままならなかった。隆道からもらったお金がどんどん減っていく。私のパート代では、家賃代にもならない。精神的にまいっていたが、仕事には行っていた。

だが、私は仕事でミスを連発してしまった。お客様のオーダーを間違えてしまうといったミスだった。私は店長に、「抗精神薬」を飲んでいることを素直に話した。
「そういう人を以前に使ったことがあるけど、結局は続かなかったんだよね」
と、店長は冷ややかに言った。
「頑張ります。私、頑張りますから!」
と、私は言った。
 

その次の週に、私は大智と亮純に会いに福山まで新幹線で行った。大智は、第一志望だった高校に受かり、福山で一人暮らしをしていた。そこに3人で泊まった。3人で焼き肉を食べに行った。大智も亮純もよく食べた。特に小さい頃は食が細かった亮純が、すごくたくさん食べた。二人に会うのは3か月ぶりだった。その会えなかった日々を埋めるように、私たちはいっぱい話して、いっぱい笑った。楽しかった。でも、二人との別れ際が辛かった。
 

岡山から帰ると、保がやっと、財務省の中の食堂の調理の仕事を見つけてきた。でも、二人の収入を合わせても、ぎりぎりの生活しかできない。
「葉月ちゃん、家賃の安いアパートに引っ越そうや。家賃13万円5千円は、高すぎるわ」
「せやなあ」
と、二人で話し合い、私たちは、中央区の月島から、江東区の南砂に引っ越した。家賃は7万円だった。私は、もんじゃ焼き屋の仕事を辞めて、近くのショッピングモールの中の、輸入食品のお店で働き始めた。
 

保は、優しくて誠実だが、仕事が長続きしない。財務省の中の食堂の仕事も、2か月で辞めてしまった。私も、輸入食品店のスピードというか、東京のスピードについていけなかった。かなりストレスが溜まっていたが、それでもなんとか働いていた。
 

ある日、私は、店長に呼び出された。
「お客様から、クレームが来ている。暮島さんが運んだコーヒポットが、お客様のダウンジャケットに当たって、ダウンが溶けて、穴が開いたっていうクレームが来たのよ」
「えっ!」
私は、驚いて言った。
「冷静に考えたら、コーヒーの熱では、ダウンは溶けないわ。でも、お客様からクレームが来るってことは、それだけ、暮島さんが周りを見ていないってことよ!」
店長はきつい口調で、私を叱った。
(一生懸命やっているのに・・・)
私は泣いてしまった。
そして、
「辞めさせてください」
と、言った。店長は止めなかった。店長は、少しほっとしたような顔をした。
 

暮れも押し迫った頃に、保は正月を実家で過ごすために、岡山に帰ってしまった。一人きりで迎えて、過ごす正月。友人たちからは、家族写真入りの年賀状が何枚も届いた。私は、部屋に一人きり。孤独感で、押しつぶされそうだった。無性に淋しかった。いや虚しかった。

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