統合失調症の私が伝えたい5つの事Vol20

 27 精神科受診・入院

それから数日後、お盆参りから帰宅した隆道は、私に言った。
「倉敷中央病院に、明日一緒に行こう。小田さんの娘さんが、あなたみたいな症状になって、苦しんでいたけれど、薬を処方してもらって、よくなったらしい。」
(病院?薬?)

私は少し不安になった。でも、やよいの
「精神科に連れて行ってもらい!」
という言葉を思い出した。それに、亮純の涙を思い出して、
(このままではいけない!)
と、思った。
(薬を飲めばよくなるかも知れない)
少しだが、光が差したような気がした。

私は、その夜、常夫と房恵に電話した。
「お父さん、私、明日精神科に行く」
常夫は驚いた。
「精神科って、お前大丈夫か?」
房恵が電話をかわり、
「ちゃんと化粧して、身ぎれいにしていったら、お医者さんも大丈夫って言うわ。しっかりしなさい!」
と、きつい口調で言った。常夫がまたかわり言った。
「そんな田舎で、精神科にかかっていることが、皆に分かったら、子供らどうなるねん?迎えに行ってやるさかい、東京に来い!」
私は、無性にいら立ってきた。そして電話口の常夫に向かって怒鳴った。
「お前が全部悪いんじゃ!訴えられて、新聞に載ったりするから、悪いんじゃ!」
電話口で、常夫は絶句していた。隆道が、慌てて受話器を取り、
「お義父さん、お義母さん、明日私が病院に連れて行きますから」
と、言って電話を切った。
 

隆道は、お盆参りのスケジュールを変更して、私を倉敷中央病院に連れて行ってくれた。私は生まれて初めて、精神科を受診した。緊張と不安で、あまり話せなかった。私の代わりに、隆道が、私の症状を医師に説明してくれた。

一通り話を聞いた後で、医師は、
「完全な鬱病です。治療が必要です。完全に治るまで、3か月はかかります。」
と、言った。私はなぜかその時、安堵を覚えた。
(これは、病気なのだ。私が悪いんじゃない!霊のせいでもない!治療すれば、治るんだ!)
そんな気持ちだった。

「お家は、病院から遠いですね。通院まで時間がかかりますね。入院されてはいかがでしょう?」
と、医師は言った。
「入院ですか?」
私は、驚いて聞いた。

「そうです。子供さんたちのためにも、入院して、治療に専念しましょう。こんな調子の悪いお母さんを傍で見ていたら、子供さんたちの心が限界に達してしまいます。入院が必要です。病気になっても、あなたは、まだしっかりしている。治療を受ければ、必ずよくなりますよ」
医師は、きっぱりと言った。

(子供たちのため…子供たちの心が限界に)
私の脳裏に、私の投げつけた玩具が額に当たり、血を流した亮純の姿がよぎった。不安そうに私の顔色を見る、大智の姿もよぎった、医師の言葉は、私の胸に刺さった。
「わかりました。入院します。」
私は答えた。
 

次の日、隆道はまたお盆参りのスケジュールを変更してくれて、私たちは、倉敷中央病院の医師の紹介状を持って、川崎医大付属病院に行った。二人の医師による長い診察の後に、私は、川崎医大付属病院の精神科に入院した。
病院の廊下を歩き、大部屋へ入ると私は、たまらなく不安になった。ベッドの仕切りのカーテンが無いのだった。看護師の説明によると、自殺防止のためらしい。

隆道は、看護師に、
「よろしくお願いします」
と言って、家へと帰って行った。
 

私は、ベッドに座ったり、立ったりした。落ち着かなかった。副部長という名札を付けた医師に、
「入院は嫌です。家に帰らせてください!」
と、訴えた。副部長は、
「今日は、二人の先生が、あなたを診て、入院が必要だとおっしゃったでしょう?倉敷中央病院の先生も、入院が必要だとおっしゃった。あなたには、入院が必要なのです。」
と、言った。

仕方なく、私は、ベッドに腰かけて、日が落ちて、暗くなった窓の外をぼんやりと眺めた。

夕食後から薬が処方されて、私は素直に服用した。寝る前には睡眠導入剤が処方された。疲れていた私は、薬を飲んでぐっすりと眠った。
 

初めは戸惑った入院生活だったが、慣れてきたら、話し相手もできて、けっこう楽しかった。看護師さんも優しかった。毎日1回、担当の医師の回診があり、担当の看護師が、毎日2回、調子を聞いてくれた。朝の回診では、医師は必ず、
「昨日は眠れましたか?」
と聞いた。「眠り」が、この病気には大切なのだと思った。若い医師は、私を「抑うつ状態による気力低下」と診断した。

睡眠導入剤が、よく効いて、毎晩ぐっすりと眠れたが、薬の副作用で、便秘に悩まされた。それで、便秘薬を処方してもらった。それと、若干ふらつきがあった。私は、ふらついて、転んでしまい膝を擦りむいた。
 

病院では、作業療法士による、リハビリのプログラムもあった。午前中は、革細工や、ビーズアクセサリー作りなどのプログラムがあった。私は、革細工が気に入った。
「もっとやりたい!」
と、思うところで、プログラムは終わってしまう。でも、それくらいの時間がいいのだと、作業療法士の先生は言った。午後からは、卓球や、キャッチボールといった、スポーツのプログラムもあった。スポーツのプログラムは、とても楽しかった。

入院患者の中に、澄子という女性がいた。私は、澄子と一緒に、よく屋上で煙草を吸った。その頃は、まだ、屋上で、煙草が吸えたのだ。澄子は、どこか雰囲気が江美子に似ていた。

「澄子さん、先生に、全部本当の事を話していますか?私、話せていないんです」
「本当の事って?」
澄子が私に聞いた。 
「私の弟が、やくざになって。覚せい剤で、警察に捕まったんです。多分、私、それが原因で私、病気になったのだと思うんです。でも、先生に、本当のことが言えなくて・・・」
澄子は、
「あんたがそこまで言ってくれたから、私も言うんじゃけど。私の夫は、ピストルで撃たれて死んだんじゃ」
と、言った。

精神科の診療で、患者が医師にすべてを話すことは、とても大切なことだと思う。そのためには、医師と患者の間で確固たる信頼関係が築かれなければいけない。
 

澄子は、その後ほかの病院に転院したが、鬱状態がよくならずに、自ら命を絶ったと、人づてに聞いた。
 

医師の処方する薬、担当の看護師によるカウンセリング、作業療法士によるリハビリのプログラムのおかげで、私は徐々に回復していった。
 

隆道は、私の入院中、家事や、大智と亮純の世話、そしてもちろん寺の仕事をこなしていた。忙しい8月に私は入院したのだから、隆道は本当に大変だったと思う。今でも感謝の気持ちでいっぱいだ。大智は小学5年生、亮純は小学2年生だった。二人とも、どれほど心細かったことだろう。

亮純は、私の入院後に情緒不安定になった。当初、隆道は私の入院を周囲に伏せていた。大智と亮純の学校にも言っていなかった。亮純の様子がおかしいと思った担任の先生が、
「お家で、何かありましたか?」
と、隆道に尋ねて、隆道は、私の入院の事を話した。私の姿が見えないことを不審に思った、檀家さんや近所の人にも話した。あっと言う間に、私が精神簡に入院したことは、町中に広まってしまった。隆道も、大智も亮純も辛かっただろうと思う。私も子供たちと離れての暮らしは、淋しく、辛かった。
 

きちんと薬を服用して、睡眠と休養をたっぷり取り、また作業療法などのリハビリも効き、私は、外泊(自宅に帰ることをそう呼ぶ)を繰り返して、次の年の1月に退院した。隆道も、そして大智も亮純も、とても喜んでくれた。


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