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半沢直樹と新型コロナと怒りの矛先

日曜劇場『半沢直樹』の視聴率上昇が止まらないらしい。まもなく最終回も迎えるので、最近、見逃し配信なども加わり、さらなる視聴率UPも望めるとは思うが、これ、時代の流れも大いに関係していると思う。

半沢直樹自体、原作者が池井戸潤さんということで、まあ、それだけでも人気なのはわかるが、前回のシリーズに続き、今回のシリーズは、まるで少年ジャンプみたいなノリが存在しているなあと、個人的には思っている。

少年ジャンプは、良く知られた話ではあるが、「努力」と「仲間」と「友情」が基本テーマで、逆に言うと、それらの要素がないストーリーは、自然に読者によって駆逐されていく。

よくあるパターンとしては、「敵」だった者が、ある時から「味方」になったりするというパターンだ。黄金パターンといってもいいもので、わかっちゃいるけどやめられないという感じで、たとえわかっていたとしても、読む者のアドレナリンが刺激されてしまう。同じようなことが、今回の第二シリーズの半沢直樹にも起こっている。

でも、視聴率が伸びているのは、そればかりではない。他にも、時代の要素が味方してくれていると、私は思っている。

今世の中は、全体的に鬱蒼とした空気感が漂っていて、それは、基本的には、新型コロナのせいであるといってもいい。ここで、トランプ大統領だったら中国のせいだとかいうのであろうが、私的には、新型コロナによって、皆がマスクを付けて外出せざるをえない状況が続いていたりすることによるものだと結論付けたい。

そして、その鬱蒼とした空気感を、半沢直樹が肩代わりして、自分の代わりに、その溜め込んだ不平不満とか、漠然としてどこにも発散できない怒りを体制に対してぶつけてくれるので、余計に皆見ているのであろうと思っている。

半沢直樹は見ていて確かに面白いが、熱狂してみるというのとは違う。ある意味、見終わったら終わりだ。鬼滅の刃を見た後みたいな、心に残るものがない。これは、良い悪いの問題ではない。ただ、余韻みたいなものがないということだ。

これは、なぜか?

それは、怒りは発散したら、そこで終わるものだからだ。しかも、半沢直樹による代理の「怒り」であるので、ある意味、「スッキリしたら終わり」となるだけのことなのだ。

また、今回の半沢直樹のシリーズでは、前半は親会社である銀行対、子会社である証券会社という図式で、世の中の「会社のシステムの理不尽さ」に対するものであったのに対し、後半は、「世の中の政治とか社会のシステム全般の理不尽さ」に対する怒りを表現している。だから、余計に世間もそれに対して「同調」することで、さらに盛り上がるのは自明の理だ。

しかも、ここに、前述した少年ジャンプ的な熱狂要素を取り入れてもいる。かつての敵が味方になったりといった要素まで取り入れている。これで盛り上がらないわけがないのだ。

でも、どれだけ半沢直樹が「倍返し」をしようが、実際の世間では、マスクをしないと飲食店に入れなかったり(実際に店に入って着席したら、マスクを外していいというのは、矛盾していると思うのだが、いかがなものか?)するのだが、こういった世間の人々の怒りそのものがなくなるわけではない。ただ一瞬、それが和らぐだけだ。

おそらく世間は、次の怒りの矛先を探すだけに過ぎない。そこに「希望」があればいいのだが、希望はあるのであろうか?

それで、次に来るものは何かというと、私の希望的予測によれば、それこそ10月16日に封切りになる映画「鬼滅の刃 無限列車編」であろうと推測する。そこには半沢直樹のような怒りはない。むしろ、怒りよりも哀しみがそこにはある。

怒りではなく、哀しみが勝るというと、北斗の拳の「無想転生」みたいだなと思ったが、北斗の拳は昭和の時代、今は令和の時代だ。

令和における「怒り」の昇華は、炭治郎によってなされるのであろうか。炭治郎が斬るのは鬼だが、それはきっと、マスクをした世間という鬼なのであろう。

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