母のこと
美談にしたくないと思っていた。
亡くなったから、すべて良い思い出になるなんて違う。
傷ついたこと
苦しかったこと
心から好きと思えなかったこと
私がずっとたたかってきた43年を
“もうこの世にはいない”
という、生きる者にとって当たり前の最後で
すべて無しにしたくなかった。
あんなに嫌がって、
憎んだり、泣いたり、怒ったりしてたのに、
母のことを想って泣く自分を気持ち悪いと思った。
だからどこか冷めて、
何か母のことを話しても
“でもうまくいってなかったんですよ”なんて
誰も聞いてもいないことを、盾みたいにかざしていた。
吉本ばななさんの『イヤシノウタ』を読んでいて
おばさんが亡くなったことを思って書いた箇所を読んでいたら
母のホスピスでの21日間を想った。
あの3週間の母の姿は、
紛れもなく子どもに対する愛でしかなかった。
亡くなる、本当に数日前まで
看護師さんが止めても、抱えられながら自力でトイレへ行った。
おむつは嫌だと泣いた。
私は、母の
人としての意地・プライド・尊厳、
そういうものだと思っていたけれど、
あれはびっくりするほどの愛だ。
子には迷惑をかけない、意地でもよくなってやる、みっともない姿は見せない、という愛だ。
体は、当たり前だけれど限界だったと思う。
いろんなものが失われて、せん妄もあって
かみ合わない会話、目も片方は見えていなかったと思うし、
それでも送ってきたLINEも頷きも、
私は母のさみしさ、悲しさ、苦しさだと思って寄り添おうと思っていたけれど、急にはっきりした。
ただただ愛だった。
最後の最後まで、ああさせるほどに
愛されていた、とやっと気づいたし
やっと認められた。
すごくプライドの高い人だと思っていた(実際そうだとは思う)けれど、
あの人は子どものために自分を律して生きてきたんだなぁ。
それほどに私と兄は愛されていたんだなぁ。
母が亡くなって1年半、
やっと素直にその事実を受け取ることができるようになって、
どれだけ自分の考えやプライドがちっぽけか気づいた。
長かったなぁ。
今までごめんね、ありがとう。