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ちょいと語る

ただ文字を並べていくだけで何かしらの意味を理解できるようになる。
そのこと自体は悪くない。楽しんでやれるなら尚更。

エッセイでも散文でも、好きに呼べばいいと思うし、それこそ好きに書けばいい。エッセイも文芸というひとつの芸術であり、そこには書き手の思慮深さや思考の痕跡が滲み出なければ対して意味も価値もない。
そんなことを思う人、言う人もいる。ふむふむ。言わんとしていることは理解できなくもないが、その意見に同調してしまうと正直、何も書けなくなるくらい自分が何も考えていないことにぶち当たる。

子供がクレヨンを持ったら感性に任せてどこに向かうのかわからない線を引くように、自分の思考がどんな表現で可視化されるのかを楽しむために書いている節もあるから。有象無象のひとりであることを自覚して、求められているわけでもない考え、思考になりかけた輪郭不詳なものに何かしらの形を見出したい。そんな思いがあったりもする。

人ひとりが考えることなんてたかが知れているだろう。自分だけが持つ世界の見方、なんてものもひとつの理想的幻想だとも思う。でも、そこに良いも悪いもなくて、何かと似ていても、または同じ結果を弾き出したとしても、そこに個としての思考の魂のようなものがきっとコーティングされているか、核の部分に存在しているのではなかろうか。

ましてやこのnoteやその他のブログサービスなどで、個人が思ったこと、感じたこと、考えたことを自由に発信できる時代なのだから、エッセイや随筆が生まれた背景的なものは薄れていると思う。
情報過多な上に、さらに個人が好き勝手なことを言う。良い時代じゃないか。高尚なものである必要はなく一般大衆化された。書きたい人が書けばいい。誰だか知らない人の日常、そのほんの一コマを切り取った文字情報から、気づきやヒントを与えてもらえる人もいるだろう。

もしそんなものはエッセイとは言わない、という人がいるのであればむしろそれに代わる、そのジャンルに相応しい名前を付け世に広めていけば、いずれエッセイはもとの形、というよりもそのような人たちが望む形を取り戻すかもしれない。まあ、「ブログ」なのかな。それならもうあるけれど、きっとそういう話じゃないのだろう。

「エッセイ」「文体」「随筆」などでGoogle先生に教えを請おうとしたら、「エッセイ」について熱く語るもの、ある種の思想のようなものをいくつか目にしてしまった。
なるほど、と思いつつも自分なら何を思うかを少しだけ考えた結果、正直なところ書くことが好きで、頭の中にあるよくわからない状態に形ができたり名前がついたり、そんなことに興味があることをあらためて知った。

料理好きな人が毎日ちがう料理を作らないのかと考えたらきっとそんなことはないし、料理を作ることが好きなら何日かに一回同じものを作っても面白いだろうし、そのうち同じものにアレンジを加え出してオリジナルの味を完成させるかもしれない。カレーだったとしても。

「○○はこうあるべき」は息苦しい。むかしはべき論になぜか囚われていたけれど、ここ数年、「ある(する)べき」「する必要がある」「しなければいけない」が嫌いな言葉になってきた。それは自分の中から出てきたものではないから。いや、言葉が嫌いというよりもその背後に禍々しい何かがあるような気がして、嫌悪感を抱いているだけかもしれない。

決めつけや押しつけは、ともすれば誰もが無意識にやってしまうことだと思う。この記事もある種の押しつけにならないか心配。何も気にしないでほしい。感情的というよりも内省的に書いた、一個人のまとまらない思考の吐露にすぎないから。

感想や意見をいただいても何も返そうとは思わないので、コメントオフにしたいと思ったらプレミアムの機能だったようだ。なるほど。理解。
というわけなので、この記事は投げっぱなしジャーマンスープレックスだと思っていただければありがたい……。

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