わすれもの
1.彼女の雨
受話器を置いてソファに腰を下ろす。ティーバッグを浮かべたカップのふちには数十分前の飲み口の跡を鮮明に残したまま、必要以上にその濃度を増して、温もりさえなくしている。「気持ちが強すぎて冷めきっている」彼女の心境を如実に表しているようで、もう今さら口をつけようとは思えない。
窓ガラスには、打ち付ける雨粒が滴り落ちるその奥に彼女の歪んだ顔が翳りをもって映り込んでいる。高層階とはいえカーテンは開けっ放し。月の明かりでも隣家の灯りでもいい、とにかく窓の向こうからわずかな光でも感じない限り、不安と孤独で押しつぶされそうな気がする。
咄嗟にテレビのリモコンへと手を伸ばす。地デジ化されてからというもの、電源ボタンを押してから画面に輝きが灯るまでのタイムラグが長い。その反応の悪さにいつも焦りを抱えながら、それでもそのスピーカーから流れ出す音声を耳にすると長い沈黙が破られたときのように安心する。チャンネルをひっきりなしに替えても望む番組なんてやっていないことは彼女自身が一番よくわかっていた。所詮、ただ気持ちを紛らわせたいだけなのだから。
「もう別れよう、わたしたち」
無意識のうちに口からこぼれたその一言に彼女は思わず耳を疑った。電話ごしの彼よりよほど驚いたのは彼女自身かもしれない。
確かに決してうまくはいっていなかった。そもそも会話を交わしたのもかれこれ何日ぶりだろう。近くはないけどそれほど遠くもない、会おうとすればいつだって会えるその距離は、いつの間にか居心地の良い距離ではなく都合のよい距離になっていく。会おうとすれば会える、つまり裏を返せば、会おうとしなきゃ会わない、ということ。とはいえ終わりを迎えるほどかと聞かれたら、そう簡単に首を縦に振るほどでもない。好きという感情が数年前に比べると乾きはじめてからしばらく経つが、反比例を見せるように愛おしい、大切に想う気持ちへとシフトされたつもりでいたのだ。
不満を言い出せばきりがないけれど、不満がない付き合いなんて求めていたわけじゃない。たくさんの不満をともに解消する、そうやって変わっていきたかっただけ。なのになぜ。
けれど彼女はその言葉を訂正する気にはなれなかった。意地やプライドではない、どこかになにかをわすれてきたようで、ただただ自信がなかったのだ。自分の選択が正しかった、彼女はそう思いたい衝動に駆られて、再び受話器を手にしテレビの電源を落とす。窓を打つ雨音が少しだけ激しく速くなった気がした。
ふと手にした受話器がけたたましく電子音を発し、びっくりした彼女を尻目にまた鳴り止む。心臓の高なりをおさえきれず、彼女は不意にすべてがうまくいっていたあの頃の二人を思い出す。
物事をはっきり伝えないと気がすまない彼女とすべてを飲み込み苛立ちすら隠そうとする彼。昔から何も変わってはいない。必然的にケンカのきっかけは彼女、でも彼のどうしても伝えたいことは、ほとぼりも冷めかかった頃、電話を介してやってくる。
本人すらまだ戸惑っているかのように、鳴らす呼出音はわずか数コール。「話してもいいけど、聞きたいなら自分からかけてきな」そのコール音にふんぞり返った彼が映っているようで複雑な気分だけど、それでも彼女は毎回かけ直してしまうのだった。
彼女はふっと我に返る。受話器の向こうに、初めて彼の本心が透けて見えたようで、思わずそれにすがろうとも思った。
しかし甘えてばかりはいられない。彼女は彼を振り切るように涙と感情をのみこんで、そっと受話器を定位置にもどす。
2.彼の夜
彼女から唐突に投げかけられた一言に様々な思い出が頭を駆けめぐった。ひどくピンボケした写真の中でほほえむ君、このベッドにうつ伏せのまま熟睡する君。怒ると空気が変わるからすぐわかる、しかし最近は心の隅に押しやって、全くと言っていいほど光を浴びなかった君。
彼女のその一言がすっと深く浸透してやっと、彼は理解した。そうか、君と別れるのか。
不思議と悲しみはなかった。なんとなく受け入れられた、受け入れなければならない気がしたのだ。彼女の言葉をゆっくりと反芻し、しっかりと心に刻む。こぼれた一言であったとしても、二人にとっては何にも替えがたい一言だった。他愛のない会話を続けてほどなく、彼女との最後の電話が電子音を残して切れた。スツールにケータイを放り投げ、ベッドの上に倒れこむ。
夜空をもさえぎるように強い雨が降っている。パラパラと窓を叩く音から察するに、風もひどく強く吹き込んでいるようだ。
彼には判っていた。さっきのあの一言に、強く決断した固い意思など宿っていたわけではないこと。しかしいつかはこうなることに気づいていなかった、というとそれは嘘になる。決して気持ちが色褪せたわけではなく、ただ変わりきれなかったのだ、と思う。僕らはどこかにわすれものをしたのだ。
彼は目をつぶって、窓の外へと意識を向ける。幹線を走る車が水たまりを散らす音、時折クラクションが鳴り響く。向かいのコンビニに集まる喚声、もうこんな時間だというのに。
-本音で向き合わなくていいのか、彼は彼に問いかけた。追いかけなくていいのか。
スツールに右手を伸ばし、手探りでケータイを見つける。暗闇に溶け込んだ彼の部屋に、規則的に並ぶアイコンが目を傷めるように鋭く浮かびあがる。
思えば昔からそうだった。その場しのぎの応え、結論は彼女まかせ。伝えようと思っても、妙に気恥ずかしくなってコールの途中で切ってしまう。そう思い返してまた気づく。これが自分の本心なのか。あの数コールだって、結局のところ彼女のためではなかったか。彼はもう一度瞳を閉じて、自問自答を繰り返した。
ほんの束の間、首をもたげた甘えを振り払って、彼は受話器をテーブルへ戻す。
「何か買いに行こう」誰にかけるでもなくそう呟いて、彼は部屋を後にする。冷たい風が身体を吹き抜け、雨粒が彼の頬をきつく撃ちつける。不意にうつむいた彼の顔からこぼれ落ちたのは、その雨滴なのか一筋の涙なのか、それは彼にもわからなかった。
わすれもの/ケツメイシ
10年以上前、学生時代の秋によく聴いた名曲です。
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