映画を倍速で観る理由
最初にお伝えしておくと、僕は倍速では観ません。
普通に観たい派の僕が、倍速で観る理由を考えてみた、という記事です。
もうひとつ、僕はビジネス用語が嫌いです。
嫌いな理由は、ビジネス用語を多用する人の話を聞いて、中身がないなーと感じることが多いからです。
※あくまで個人の見解です
可処分時間という言葉の影響
仕事をしている中で、この言葉を数年前から耳にするようになり、「何それ?」と思って、適当に受け流していたのですが、最近僕の想像の中で、可処分時間という言葉がしっくりきたことがありました。
先日、映画やドラマを倍速で観る人が増えているというネット記事を読んだときに、自分の考え方とは違う人がいるもんだなと感じつつ、「とにかく効率的に生きたいってことなのかな?」と思いました。
限られた時間の中で、目の前にある情報をなるべく多く消費する。
彼らは時間を処分しているのではなかろうか。
それなら可処分時間という言葉がぴったりだ!
可処分所得ってもう言わないの?
おそらく可処分時間よりも前から使われていた言葉に、可処分所得というのもあります。
これも誰かがビジネスの場で相手を納得させるために生み出した言葉だと思っていて、とりあえず鼻をつまんでいるのですが、とにかく誰かが「所得」から「時間」に価値基準を変えたのでしょう。
推測するに、その理由は、超絶お金持ちがたくさん生まれて、「所得」なんてどうでもいい人が増えたから。
あるいは、それなりにお金を稼げる仕事があって、およそ生涯に得られる「所得」が見えている人が増えて、昔ほど「所得」が大事だと感じられなくなってきたから。
その一方で、超絶お金持ちでも超絶貧乏でも、与えられている「時間」の量は平等で、上限も決まっていて、そこに価値がある風に思えるから。
すると、頭が良い人間は、時間が限られていて、そこに価値があると考えると、なるべく少ない時間でいろんなことをしなくちゃいけない気がしてくる。
効率的に、とにかく効率的に。
すると、時間を効率的に使うことが目的になってしまい、何をするか、何をしたいかは優先順位が下がっていく。
多分これは無意識のレベルでそうなってしまう。
あぁ、人間よ。
映画を観るにしても、どれを観るか、何を感じるかより、何本観たかが大事になる。
「あれも観たし、これも観たし、話題のやつは全部観たぜ!」
「中身も知ってるぜ(なんとなく)!」
「みんなが面白いって言ってるし、面白かったぜ(多分)!」
そりゃ、倍速再生にもなるわけです。
倍速再生とまではいかないまでも、説明台詞がめちゃくちゃ多くて、こっちが感じたり、考えたりする手間を勝手に省いてくれちゃうような、つまらない作品が増えてしまうわけです。
さらに僕の想像は広がって
可処分時間という言葉が、昨今の多様性を認めようという風潮とも実はつながっているかもしれないと考えたのです。
個々の価値観は違っていて、それらをすべて認めようとなったら、価値観というもの自体が無意味になる。
ちょっと乱暴な推論かもしれないが、価値観が違うなら、誰も物事の中身を評価できない、評価してもしょうがないから。
同じ映画を観ても、高評価と低評価があって、それを全部認めるなら、もはや何でもいい。
中身に対する基準が存在しない社会、基準を決めて評価してはいけない社会。
映画の中身がどうとかじゃなくて、効率的に時間を処分するために映画は存在する。
いくつかの選択肢の中から「映画を観る」を選んで、時間を使った!
それで目的達成、万々歳だ!
その先にあるもの
異なる価値観の存在を認めることが、人と関わらない、干渉しない、意見しないという方向に転がっていく可能性。
共存しているように見えて、ただ分断されているだけの社会になるのではないだろうか。
自分が持っている時間を、自分が思う通りに、ひたすら効率的に処分していくことによって満たされる生き方。
もちろん、それが良いか悪いかを今の尺度で判断するのは違うのかもしれないけど、とにかく僕は、可処分時間という言葉が好きじゃないのです。