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【福祉を読む】ノーラ・エレン・グロース(佐野正信訳)『みんなが手話で話した島』
マーサズ・ヴィンヤード島は、2つの点で有名な場所だ。
第一に、ここは避暑地として広く知られている。普段は15,000人ほどの人口が、夏の間には10万人以上に膨れあがる。クリントン夫妻、ウォーレン・バフェット、トム・ハンクス、メグ・ライアンなど、セレブたちもこぞってマーサズ・ヴィンヤードに訪れる。2019年にはバラク・オバマ元大統領が12億円で豪邸を購入した。
映画のロケ地としてもよく使われる。1974年にはスピルバーグが『ジョーズ』をここで撮影した。人喰いザメが海辺で暴れまわったのはマーサズ・ヴィンヤードだったのだ。
そして第二に、ここは「誰もが手話で話した島」として、人類学や障害学を学ぶ者にひろく知られている。そのきっかけを作ったとされているのが、今回取り上げるノーラ・エレン・グロースの『みんなが手話で話した島』だ。
1953年生まれの医療人類学者であるグロースは、1983年に本書のもととなる論文で博士号を取得した。書籍化されると、著者の専門とする医療人類学以外にも、福祉や障害学などの分野でそれなりに話題となった。『レナードの朝』の原作者としても知られる神経科医オリバー・サックスは本書を読み終えると「とるものもとりあえず、歯ブラシとテープレコーダーとカメラだけを手にして、大急ぎで車に飛び乗った」と書いている。「この魅惑的な島を、この目でひと目でも見ずにはおれなかったのである」(オリバー・サックス『手話の世界へ』p.59)
ところが本書、日本では1991年に築地書館から刊行されたが、いつの間にか絶版になってしまっていた。古書市場でもかなりの高額で、なかなか手が出なかったのだが、2022年にハヤカワノンフィクション文庫で復刊された。文庫の新刊コーナーにこの本が並んでいるのを見た時は思わず声が出てしまった。
★★★
この島で手話が広く使われた理由ははっきりしている。聾者の割合がきわめて高かったためである。
ちょっとめんどくさい話だが、念のため書いておくと、本書における「聾者」とは、難聴者も含め「耳が聞こえない/聞こえにくい人」全般を指す言葉として使われている。ちなみに本書を翻訳した佐野正信氏によると、ひらがなを使う「ろう者」は「手話使用者」に近いニュアンスがあるという。
マーサズ・ヴィンヤード島はニューイングランドの沖合いにある、260平方メートルほどの大きさの島である。日本でいえば西表島より少し小さいくらい、伊豆大島の3倍弱。そこそこの大きさだ。すぐ近くには『白鯨』で有名なナンタケット島があり、この島でも後に捕鯨が栄えた。
4,000年以上前から先住民が定住していたという記録もあるが、ヨーロッパからの入植は1644年にはじまった。だが島民に聾者が増えるきっかけとなったのは、そのすこし後から始まる、イギリスのケント州ウィールド地方からの移民だった。ウィールド地方はもともと周囲と孤立した地域であり、それゆえに近親婚による「遺伝子プール」があったのではないかと著者は推測している。彼らはまた「異端的で有名」なピューリタンだったという。
迫害を逃れ新天地にやってきたウィールドの人々は、やがてマーサズ・ヴィンヤード島にたどり着き、前と同じようなコミュニティを作り上げたのだ。限られた近親者で結婚を繰り返すうちに、おそらくもともとあった遺伝性難聴の素因となる遺伝子を持つ者が増えた。この遺伝子は潜性であり、両親から同じ遺伝子を受け継がなければ発現しない。それでもメンデルの法則が示す通り、同じ遺伝子をもつ両親から生まれれば、4人に1人は聾者となる。
こうして、1840年代には島民のほぼ全員がケント州出身の祖先を二人以上もつことになった。それに従って聾者の数は増え、中でもチルマークというエリアでは聾者の比率が25:1、その中のある居住区では4:1にまで達した。人口350人のエリアで、39人が先天性の聾者であったというデータもあるという。
だがそれでも、と思う人もいるかもしれない。近親婚によって聾者の子どもが生まれることがわかっているのだから、近親婚を避けるという考えは浮かばなかったのか、と。
だが、この問いは大事なことを見落としている。そもそもマーサズ・ヴィンヤード島では「聾者が劣った存在」とはまったく思われていなかったのだ。それどころか、その人が聾者であること自体、あまり意識されていなかったという。
本書には、90代の老婦人に、ある二人の島民について尋ねた時のやり取りが紹介されている。
「アイゼイアとデイヴィッドについて、何か共通することを覚えていますか」
「もちろん、覚えていますとも。二人とも腕っこきの漁師でした。本当に腕のいい漁師でした」
「ひょっとして、お二人とも聾だったのではありませんか」
「そうそう、いわれてみればその通りでした。二人とも聾だったのです。何ということでしょう。すっかり忘れてしまうなんて」
さらに、別の女性はこんなふうに発言している。
「私は聾のことなど気にしていませんでした。声の違う人のことを気にしないのと同じです」
いやいや、言葉だけなら何とでも言えるよ、と思うかもしれないが、では聾者の結婚率が73パーセントで、うち同じ聾者と結婚したのは35パーセントだった、というデータをどう考えればよいだろうか。ちなみに現在のアメリカでは、聾者の結婚の80パーセントは夫婦とも聾者、7パーセントは聾者と難聴者なのだ。
これがいかに例外的な状況であったかは、当時の一般的な社会の状況を見てみればよくわかる。これまで多くの社会で、聾者は「劣った存在」「欠陥のある存在」とみなされてきた。その歴史をたどると、なんと先天性の聾者の権利を制限したバビロニアの法典にまで行きつくという。アリストテレスは、耳が聞こえないと学習が不可能になり、いかなる指導も無駄になると考えた。ルクレティウスは「聾者はいかなる技術でも指導できず、いかなる治療でも改善できず、いかなる知恵でも教育できない」と書き、アウグスティヌスは「先天聾が信仰を不可能にするのは、生来の聾者は、言葉を聞くことも学ぶこともできないからだ」と説いた。
15世紀になると、啓蒙思想とともに、ようやく聾者の教育の試みがなされるようになった。人文学者アグリコラらは、聾者の指導は可能であると主張し、18世紀にはパリ、ライプツィヒ、エディンバラで聾学校が続々とつくられた。だがそれでも、一般の人たちの聾者への偏見と差別はなかなかなくならない。今もってアメリカでは、聾者の平均所得は聴者(耳が聞こえる人)の7割、女性は6割だという。
少し話がそれるが、日本でもつい先日、聴覚障害のある女の子が亡くなった事故における逸失利益の算定で「健常者と同額」とする高裁判決が出たばかりである。ちなみにこの判決、これだけ見ると問題ないようであるが、地方裁判所では「全労働者の平均賃金の85%」という判決が出されていた。しかも被告側が最初に遺族に提示したのは「平均賃金の4割」だったというから呆れたものだ。
閑話休題。
しかし、このような状況をよそに、なぜマーサズ・ヴィンヤードでは、聾者が「障害者」として意識されていなかったのだろうか。
ここで大きく関係しているのが「みんなが手話で話していた」という点である。
この島では、子どもたちは他の言語習得と同じように自然に手話を習得し、誰もが英語と手話の「バイリンガル」だった。複数人で話すとなると、その中に聾者が含まれている可能性が高いのだから、最初から手話で(あるいは、手話と口話とのちゃんぽんで)話したほうが確実なのだ。そうなると当然「この人は耳が聞こえない」と意識する機会は格段に少なくなる。だって最初から、聞こえない人でも通じるように話しているのだから。
ここで大事になってくるのが、障害の「医学モデル」と「社会モデル」という考え方である。福祉関係者ならご存知かとは思うが、いちおうおさらいしておこう。
医学モデルと社会モデルの違いは、障害というものを個人の問題として捉えるか、社会の問題とみるか、という点である。医学モデルでは、障害というのはあくまで個人の問題であると考える。例えば下肢にマヒがあって車椅子を使用している人の場合、下肢のマヒそのものが障害であると考えるのだ。
一方、社会モデルは、障害は社会によって作られているとみる。先ほどの例でいえば、車椅子で通れないような段差があるから、その人は障害者に「させられている」と考えるのである。社会モデルでは、障害をその人自身の機能の問題(機能障害、impairment)と、それによって生じる能力の低下(能力低下、disability)、その結果生じる社会的な不利益(社会的不利、handicap)に分けて考える。下肢マヒという症状がimpairment、歩行できない状態がdisability、段差があって車椅子で移動できない不利益がhandicapである。
ここで重要なのは、下肢マヒがあって車椅子に乗っていても、段差がなければその人は何も困らない、ということだ。そして、段差を作っているのはその人ではなく、社会の側である。社会が「健常者仕様」になっていることが、結果として「障害」を作り出しているのである。
こうした社会モデルの考え方を最初に知った時は衝撃的だった。そんな見方があるのか、と思わされた。実際、これは障害というものの見方を180度ひっくり返すものであるが、とはいえ、あくまで社会の変化を促すためのツールであり、思考の道具であるとされてきた。
だが、ここに、社会モデルをとっくの昔に実現していたコミュニティがあったのだ。言うまでもなく、マーサズ・ヴィンヤード島のことである。
先ほどの3分類でいえば、遺伝的な要因で起こる聴覚器官の機能低下がimpairment、それによって生じる耳が聞こえない/聞こえにくい状態がdisabilityだ。一般の社会ではここに、「声による会話が中心のコミュニケーション」というhandicapが加わる。しかしこの島では、そもそも手話が会話に組み込まれているので、聞こえない人であっても、ことコミュニケーションという点では「障害者ではない」ということになるのである(もちろん「音が聞こえない」という不便さはあるが)。本書が関係者の間で話題になったのは、単なる理論と思われていた社会モデルが、現実に適用されていた事例だったからだった。
ただし、それがある種偶然の作用だったこともまた、忘れてはならないだろう。ケント州の人々が島に移住した1694年から続いたと思われる独自の歴史は、20世紀に入って外部からの人口流入によって急速に失われた。最後の遺伝性難聴の当事者が亡くなったのは1952年。著者が記録に残したのは、30年以上前にこの島で起きていた、奇跡のような出来事の追憶にすぎなかったのである。
追記。
この島を舞台にした小説がある。アン・クレア・レゾットの『目で見ることばで話をさせて』だ。自らもろう者である著者が、マーサズ・ヴィンヤード島で生まれ育ち、「本土」に連れていかれた少女を主人公に、当時の社会の状況を鋭く描き出した一冊。おススメです。