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【福祉を読む】F・P・バイステック『ケースワークの原則』第2回

さて、バイステック編の第2回である。今回は「7原則」のそれぞれをご紹介し、簡単にコメントしていく。
なお原則の名称は、一般に知られているもの(つまり本書の旧訳版で使われていたもの)を先にして、カッコつきで「新訳版」の名称を書くこととする。本書の書きぶりとは逆になる。
では、始めよう。長くなるので、最初に目次を出しておく。


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原則1 個別化(クライエントを個人として捉える)

クライエントを個人として捉えることは、一人ひとりのクライエントがそれぞれに異なる独特な性質をもっていると認め、それを理解することである。また、クライエント一人ひとりがより良く適応できるよう援助する際には、それぞれのクライエントに合った援助の原則と方法を適切に使いわけることである。これは、人は一人の個人として認められるべきであり、単に「一人の人間」としてだけではなく、独自性をもつ「特定の一人の人間」としても対応されるべきであるという人間の権利にもとづいた援助原則である。

本書p.36

私たちはクライエントを「アルコール依存症の人」とか「アルツハイマー型認知症の人」とか「何度も刑務所に入った人」として見てしまうことがある。この原則は、まずはこうした傾向への戒めだ。

とはいえこれは「アルコール依存症である」という事実を無視せよ、というわけではない。そりゃそうだ。アルコール依存症であることは、間違いなくその人の一つの側面、あるいは要素なのだから。でも「アルコール依存症」以外にも、その人には、いろんな要素があるはずだ。そのことを見落として「アルコール依存の人はこういう性格で、こういう行動を取るものだ」と決めつけてしまってはイカン、ということである。

「わたし/あなた自身」だってそうだろう。例えばこれを書いている「わたし」は、日本人であり、男性であり、社会福祉士であり、地方公務員であり、係長であり、夫であり、父親であり、活字中毒であり、クラシック音楽と麻雀とラーメンが大好きだ(あくまで一例ですよ)。つまり、誰でも多かれ少なかれさまざまな面をもっていて、まるで仮面を付け替えるように、場面によってどの面を見せるかを選びながら生活しているのである。

言い換えれば、「わたし」の正体とは「たくさんのわたし」にほかならない。「個別化の原則」とは、したがって、クライエントの中にひそむ「たくさんのわたし」をできるだけ多く発見し、可能な限り多面的、立体的に捉えることである。もちろん、その人のすべての側面を把握し、理解することはできない。だが、できるだけ多様な見方でその人を理解しようとするソーシャルワーカーの努力は、必ずやクライエントに伝わるはずである。

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原則2 意図的な感情の表出(クライエントの感情表現を大切にする)

クライエントの感情表現を大切にするとは、クライエントが彼の感情を、とりわけ否定的感情を自由に表現したいというニードをもっていると、きちんと認識することである。ケースワーカーは、彼らの感情表現を妨げたり、非難するのではなく、彼らの感情表現に援助という目的をもって耳を傾ける必要がある。そして、援助を進める上で有効であると判断するときには、彼らの感情表出を積極的に刺激したり、表現を励ますことが必要である。

本書p.54

これは元の原則名が分かりにくく、最初に勉強した時は、なかなかピンとこなかった。だいたい「感情表現」をするのがクライエント側なのか、ソーシャルワーカーなのかがハッキリしない。その点、新訳はとてもわかりやすく整理されている。

クライエントから聞き取りをするとき、特に新米のソーシャルワーカーは時として、フェイスシートやアセスメントシートを埋めるために、客観的な「事実」を確認しようと躍起になってしまう。限られた時間の面接だとなおさらだ。そして「事実」にばかり意識が向きすぎると、クライエントが示す怒りや嘆きの感情が、なんだか聞き取りの邪魔に感じられることがある。

でも、感情は決して、事実とは別のものではない。というか、バイステックの言葉を借りれば「感情は事実である」(p.69)。客観的な事実も大事だが、それにともなって示されている感情こそが、本当の意味での「クライエントにとっての真実」であり、その事実がもつ本当の意味を指し示してくれていると、バイステックは言うのである。

この章でバイステックは、もう一つ重要な指摘をしている。それは「援助の初期にケースワーカーは、問題それ自体に対してではなく、問題と深い関わりをもっているクライエント自体に関心を向けるべきである」(p.57)というものだ。クライエント自身に関心を向けることは、第一に、問題に対する感情(つまりクライエントにとっての問題の意味)を理解するために必要であり、第二に、そうしたクライエントはそれ以外のさまざまな課題を抱えていることが多く、そうした課題を総合的に把握するために必要であるからだ。

余談だが、最近は郵送やオンラインでいろいろな手続きが済むようになった。それ自体は大変喜ばしいことだが、介護や福祉の現場で過度にDX化が進んだ場合、こうした総合的な相談機能はどうなってしまうのか、いささか不安も感じているところである。急速な変化についていけないオジサンの繰り言であればよいのだが。

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原則3 統制された情緒的関与(援助者は自分の感情を自覚して吟味する)

ケースワーカーが自分の感情を自覚して吟味するとは、まずはクライエントの感情に対する感受性をもち、クライエントの感情を理解することである。そして、ケースワーカーが援助という目的を意識しながら、クライエントの感情に、適切なかたちで反応することができる。

本書p.77

これも旧訳の表現はやや分かりにくい。いっぽう新訳も「援助者の」という文言が入ったのは良かったが、「関与」のニュアンスが抜けてしまったのは惜しまれる。

原則2と原則3は、クライエントの感情を理解するという共通の目的に向けられたものである。ただし、原則2がクライエント側の感情表出にフォーカスしていたのに対して、こちらの原則3は、それを受けとるソーシャルワーカー側に着目している。

人間は感情の動物である。これは、クライエントだけではなく、ソーシャルワーカーにも言えることだ。そのため、クライエントの話を聞くうちに、ワーカーの側にもさまざまな感情が湧きおこる。それ自体はとても自然なことだ。しかし、ワーカーがもっているさまざまなニーズや感情をワーカー自身が自覚し、統御できていないと、クライエントの感情表現を受けとめる際に時として干渉してしまう。

例えば自分の父親が暴力的であったワーカーが、同様に暴力的な父親について語るクライエントに過度に感情移入してしまったり、必要以上に自分に引きつけて考えてしまう、というような場合である。もちろんある程度の共感は大事だが、あまり行き過ぎてしまうと、クライエントの問題をワーカー自身の問題と切り離して理解することができなくなる。

ワーカーはあくまでクライエントの感情を「クライエントと彼の問題の関係性の中で理解する必要がある」(p.84)。とはいえこれは、おそろしく大変なことである。なぜならそうするためには、時として私たち自身のもっとも触れられたくない、もっともデリケートな部分を直視しなければならないからだ。

十二人の怒れる男』という映画に出てくるある陪審員は、父親を殺したとされる少年を、強硬なまでに有罪と決めつけ、誰の異論も受け付けようとしない。その背景には、彼自身が息子と仲違いし、裏切られたと感じていたという事実があったことが、物語が進むうちにわかってくる。陪審員同様、ソーシャルワーカーは、そのような感情に対して自覚的でなければならない。

もうひとつだけ、本章で大事なポイントを挙げておきたい。ソーシャルワーカーは自分の感情をしっかり自覚し、吟味する必要がある。だったら、そもそもワーカーがいっさいの感情を押し殺したまま、表面だけは愛想よく、的確に応答すればよいのでないか? 

でも、バイステックは抜かりなく、次のようにも書いている。「ケースワーカーの反応は、それがワーカーの『心のなか』をきちんと通過したときにだけ意味をもつものである・・・(略)・・・クライエントは、心を通過しないワーカーの言葉を見抜くものである」(p.91)

そのとおり。逃げ場はない。ソーシャルワーカーとは、自分の心を使って人の心に触れる仕事なのだから。

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原則4 受容(受け止める)

援助における一つの原則である、クライエントを受けとめるという態度ないし行動は、ケースワーカーが、クライエントの人間としての尊厳と価値を尊重しながら、彼の健康と弱さ、また好感をもてる態度ともてない態度、肯定的感情と否定的感情、あるいは建設的な態度および行動と破壊的な態度および行動などを含め、クライエントを現在のありのままの姿で感知し、クライエントの全体に係わることである。
しかし、それはクライエントの逸脱した態度や行動を許容あるいは容認することではない。つまり、受けとめるべき対象は、「好ましいもの」(the good)などの価値ではなく、「真なるもの」(the real)であり、ありのままの現実である。
受けとめるという原則の目的は、援助の遂行を助けることである。つまりこの原則は、ケースワーカーがクライエントをありのままの姿で理解し、援助の効果を高め、さらにクライエントが不健康な防衛から自由になるのを助けるためのものである。このような援助を通じて、クライエントは安全感を確保しはじめ、彼自身を表現したり、自ら自分のありのままの姿を見つめたりできるようになる。また、いっそう現実に即したやり方で、彼の問題や彼自身に対処することができるようになる。

本書p.113

長い引用になってしまったが、これがバイステックの「受容」の定義である。これほど長い定義が必要であるということ自体が、受容という一見簡単に見える行為が、実はとても難しいものであることを示している。

すべて言い尽くされているので、この定義に付け加えることは、ほとんどない。大事なのは、ソーシャルワーカーから「受けとめてもらった」経験をすることによって、クライエントは自分自身を受けとめられるようになる、ということだろう。そして、自分の現状をあるがままに受けとめることができてはじめて、クライエントは自己に向き合い、自分の力で変わっていくことができるようになるとバイステックは言う。つまり「受容」こそが、エンパワメントの源泉なのである。

ところでもうひとつ、この章には興味深い記述がある。バイステックによれば、そもそも誰もが受容されるべきであるのは、誰もがその人に固有の価値をもっているからだ(p.114)。そして、その根底にあるのは人間すべてが有する普遍的な価値であり、この普遍的価値は「創造主である神がわれわれに与えたものである」とバイステックは言うのである(同頁)。

ここには、第1回で指摘した、バイステックの神父としての目が活きている。人間は神の似姿として神によって創造された存在であり、だからこそ、誰であっても(本書の例を引けば「公的扶助を申請するものであっても、捨て子でも、また街の居酒屋の裏口に寝そべるアルコール依存症者でも、あるいは精神病院で暴れる患者であっても」)、どんな立派な人間とも同じような尊厳を有しており、そのように扱われるべきだというのである。

ここにあるのは、キリスト教的価値観と人間の価値をつなぐ、強固で揺らぐことのない思想である。では、こうした信仰をもたない私のような人間にとって、人間の価値とか尊厳とは何によって裏付けられるのだろうか。私たちは日々の実践の中で、本心から、すべてのクライエントを「自分と同じように価値があり尊厳を有する存在」であると思えているだろうか。だとしたら、その認識は何によって支えられているのだろうか。

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原則5 非審判的態度(クライエントを一方的に非難しない)

クライエントを一方的に非難しない態度は、ケースワークにおける援助関係を形成する上で必要な一つの態度である。この態度は以下のいくつかの確信にもとづいている。すなわち、ケースワーカーは、クライエントに罪があるのかないのか、あるいはクライエントがもっている問題やニーズに対してクライエントにどれくらい責任があるのかなどを判断すべきではない。しかし、われわれはクライエントの態度や行動を、あるいは彼がもっている判断基準を、多面的に評価する必要はある。また、クライエントを一方的に非難しない態度には、ワーカーが内面で考えたり感じたりしていることが反映され、それらはクライエントに自然に伝わるものである。

本書p.141

ソーシャルワーカーに、クライエントを裁く権限はない。当たり前のことだ。私たちは裁判官でもないし、ましてや神様ではないのだから。

にもかかわらず「非審判的態度」が第5原則として取り上げられているのは、ソーシャルワークの歴史を踏まえてのことである。初期の救貧政策は、クライエントを「援助する価値があるかどうか」によって分け、価値のあるクライエントを選別して援助を提供していた。貧困に陥っていることの責任をクライエントに問い、責任があるとみなされれば援助を受けることができなかったり、援助と引き換えに厳しい制限や労役を課されたのだ。これはまさに、援助の要不要を判断するにあたってクライエントの責任(罪)を裁いていることにほかならない。

こうした歴史への反省があるからこそ、例えば生活保護制度は貧困に陥った原因を問わず「無差別平等に」保護を提供することとされている(生活保護法第2条)。介護保険も障害福祉サービスも、同様の考え方で成り立っている。例えば生まれつきの糖尿病で失明した場合でも、暴飲暴食の果ての糖尿病で失明した場合でも、身体の状況さえ同じであれば、同程度の福祉サービスが提供される。これが現代福祉制度の大原則だ。

とはいえ、サービスが平等に適用されれば、それでよいというわけではない。バイステックの7原則が「援助関係の形成」のためのものであったことを思い出してほしい。バイステックによれば、ソーシャルワーカーは、たとえ口に出さなくても、クライエントを非難してはならないのである。ただでさえ、多くのクライエントは過去の行動への後悔や罪悪感を抱えて、ソーシャルワーカーのもとにやってくる。そこでワーカーの口調や態度、目つきなどから非難のそぶりを感じ取ってしまえば、クライエントは殻に閉じこもり、自分の状況を積極的に話そうとはしない。

ただし、これはクライエントの行動を評価しなくてよい、ということではない。上の引用でも書かれているとおり、評価は必要だ。ただしそれは、クライエントを裁くためではなく、理解するために行うべきなのである。

とはいえ、どうしても「許せない」という気持ちになってしまうケースにっ遭遇することもあるだろう。そういう場合の多くは、ワーカー側の個人的な価値観や経験や葛藤が関わっているように思う(先ほどの「第3原則」と同じ問題が、ここにも登場する)。不倫に嫌悪感を抱く人、虐待と聞くとブレーキが利かなくなる人、性犯罪だけは許せないという人もいる。私の場合は、子どもへの虐待、特に性加害となると、どうしても嫌悪感が先に立ってしまう。そうした感情を完全に押し隠すのは、おそらく無理だ。

そんな時はどうすればよいのだろうか。難問である。バイステックは「クライエントを好きになる必要はないが、偏見からは自由であるべきだ」と書いている。それでもどうしても無理であれば、スーパービジョンを受けるか、担当を交代することも考えたほうがよいのかもしれない。

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原則6 クライエントの自己決定(クライエントの自己決定を促して尊重する)

クライエントの自己決定を促して尊重するという原則は、ケースワーカーが、クライエントの自ら選択し決定する自由と権利そしてニードを、具体的に認識することである。また、ケースワーカーはこの権利を尊重し、そのニードを認めるために、クライエントが利用することのできる適切な資源を地域社会や彼自身のなかに発見して活用するよう援助する責務をもっている。さらにケースワーカーは、クライエントが彼自身の潜在的な自己決定能力を自ら活性化するように刺激し、援助する責務ももっている。しかし、自己決定というクライエントの権利は、クライエントの積極的かつ建設的決定を行う能力の程度によって、また市民法・道徳法によって、さらに社会福祉機関の機能によって、制限を加えられることがある。

本書p.164

自己決定。日本では最近の「意思決定支援」をめぐる議論が思い出されるが、バイステックの活動するアメリカでは「一九二〇~三〇年のあいだに、クライエントがケースワークの決定や選択の過程に積極的に参加する権利とニードをもっていることが広く認められるようになっていった」(p.160)そうだ。今から100年前である。

その背景にあるのは「すべての人は生まれながら自由に行為することができるという信念」だった。いっぽう、今もって我が国では、例えば認知症の高齢者が施設に入るかどうか、といった話になると、本人より家族の意向が優先されることが多い。個人主義、自由主義が根づいた国と、集団主義、家族主義がいまだ根強い国の違いだろうか。

このあたりを考えていくと、どうしても文化的な背景をめぐる議論が避けられないことになってくる。さらに、そもそも人は本当に自己決定ができているのか、といった、それこそ哲学的な議論にもつながってくる(この点に関しては、スピノザの哲学がなかなか面白い)。國分功一郎と熊谷晋一郎の共著『〈責任〉の生成』などを読まれたい。

ところで、この章にはすばらしい比喩がある。「自己決定」がなぜ重要か、そのためのソーシャルワーカーの役割とは何かという点を、たいへんわかりやすく示してくれている。次のようなものだ。

「以上に述べたケースワーカーの肯定的役割を比喩を用いて要約すれば、ケースワーカーの役割とは、クライエントがもっと容易に呼吸し、いっそう明白にみることができるよう、部屋のドアと窓を開け、空気と灯りと陽の光をなかに入れることである。その目的は、クライエントが彼の部屋に関して、より良い洞察を得て、自らを助ける力を育てることである」(p.169 ただし太字は筆者)

うんうん。これならできるような気がする。特に「より良い洞察を得て、自らを助ける力を育てる」とは、まさにエンパワメントのことだ。自己決定とは単に理念だけのことではなく、それこそがクライエントの力を引き出すことにつながるから大事なのである。

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原則7 秘密保持(秘密を保持して信頼感を醸成する)

秘密を保持して信頼感を醸成するとは、クライエントが専門的援助関係のなかでうち明ける秘密の情報を、ケースワーカーがきちんと保全することである。そのような秘密保持は、クライエントの基本的権利にもとづくものである。つまり、それはケースワーカーの倫理的な義務でもあり、ケースワーク・サービスの効果を高める上で不可欠な要素でもある。しかし、クライエントのもつこの権利は必ずしも絶対的なものではない。なお、クライエントの秘密は同じ社会福祉機関や他機関の他の専門家にもしばしば共有されることがある。しかし、この場合でも、秘密を保持する義務はこれらすべての専門家を拘束するものである。

本書p.190

先ほどの「自己決定」とはある意味対照的に、「秘密保持」に関しては、今の社会は過剰なまでに気を遣う傾向がある。だから、この第7原則については、あまり強調する必要はないかもしれない。

本書がちょっとユニークなのは、保持されるべき秘密を3つに分けていることだ。①自然法的秘密 ②秘密保持を約束した上で伝えられた秘密 ③うち明ける相手に扱いを一任した秘密 である。

①自然法的秘密とは、秘密を保持する権利は万人が有する自然権に由来するとするものだ。プライバシー権を天賦人権のひとつと捉える発想である。これだと秘密保持は絶対の権利のようにも見えるが、それ以上に重要視すべき別の自然権がある場合は、秘密の開示も許されるという点には注意が必要だ(例えば児童虐待を発見した場合、秘密の保持より警察や児童相談所への通告が優先される)。

これに対して②秘密保持を約束した上で伝えられる秘密と③うち明ける相手に扱いを一任した秘密は、どちらかというとクライエントとの信頼関係の問題になってくる。これについても、やはり秘密保持が絶対の条件になるとは限らない。ただしここで悩ましいのは、秘密が保持できないこと、あるいは保持すべきでないということを、クライエントに伝えるかどうかである。

このあたりは深刻な倫理的ジレンマが生じてくるテーマであるが、個人的には、どうしても外部に伝えるべき情報であれば、その理由を伝えて理解を得る努力をすべきであろうと考える。秘密を守ると約束しておいて外部に伝えることだけはやるべきではないと思うのだが、どうだろうか。

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さて、どうにか7つの原則についてのコメントを終えることができた。いやはや、柄にもなく偉そうなことばかり書いてしまったような気もするが、取り上げた本が本なので、そのあたりはご勘弁いただけるとありがたい。次回はもう少しライトな(でもとても素晴らしい)一冊をご紹介したい。おたのしみに。






最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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