公立大学卒の元公務員が副業を検証・法律家を目指した ナオコの何でも相談室(1)〜主婦である今と人生を変えた出来事〜
[第1話]
はじめに
公立大学卒、実は法律家を目指して関大の法学部に合格していた私。
その後、日本でも超お堅い公務員をやっていました。
どんな職業かは仲良くなったらお教えしますね (笑)
こんな私が、
副業の勧誘が非常に多いので、その整合性や問題点などを検証しました。
また、副業に失敗しないため
悪徳商法に騙される人をひとりでも減らそうという思いで
私の検証結果をブログに書こうと思います。
個別相談も受け付けてますので、
相談がある方には私の見解をそれぞれにお答えできたらな、と思います。
主婦である今と人生を変えた出来事
私は、これを読んでいる皆さんと同じような、
普通の主婦なんです。
夫がいて、子供がいて、お弁当を作り朝食を作って送り出し、
その間に掃除、洗濯、家事をする。
また、夜になれば夕食の準備をする。
変わり映えのない生活を送る主婦、なのです。
今は平凡で幸せな生活を送っている、私。
しかし私の経歴を見ていただければ、
いかに真面目で堅物かが分かると思います。
そう、私は少し賢かったのです。笑
勉強は普通に好きでしたし、多少できた方かもしれません。
実は私、検事になりたかったんです。
事実、関西大学の法学部法律学科を受験し、合格もしました。
検事になりたくて法学部に合格したにもかかわらず、
関西大学に進学せず、
なぜ公立大学を選び検事の道を諦めたのかというと
ちょうどその時、震災が私達家族を襲ったのです。
そうです、皆さんもご存知の阪神淡路大震災の渦中に私達はいたのです。
皆さんはあちらこちらで火柱が上がっている光景を覚えていますか?
私の家はまさにその真っ只中にあったのです。
その阪神淡路大震災で家が全焼してしまいました。
家族は、幸いにも全員無事だったのです。
しかし隣の仲の良かったご家族の息子さんが
命を落としてしまったのです。
私たちはというと、地震で1階が潰れてしまったのですが
運よく私たちはその日全員が2階にいて無事でいられたのです。
動転する私たちは、隣の家との間にあった
1階の天井くらいの高さのブロック塀をつたって外に飛び降りました。
周りを見て衝撃でした。。
この震災が私の全てを変えたのです。
命の大切さや生きている事の素晴らしさがわかったのです。
家族が無事でいる、この幸せを一家で噛みしめたのでした。
私が法律家を目指した理由。
私の父は公務員でした。
兄も公務員という非常にお堅い家庭に育ちました。
私の父は苦労人で、
中学卒業後は、夜間高校へ働きながら通っていたのでした。
友達が楽しそうに昼間高校へ通っている姿を
とても羨ましいと思ったと、父はよく話していました。
そんな苦労が父を安定した職業、
公務員という選択肢に導いたのかもしれません。
勉強することが好きではないが、
経済的に余裕を持ちたい、安定したい
そんな気持ちが父を公務員という選択肢に導いたように思います。
苦労人で真面目な父を間近で見て育った私。
小学校の卒業アルバムには自然と「公務員が夢」だと書いていました。
父の思いは自然と私の心の中に刻まれたのかもしれません。
そのなかで私は、検事という法律家を目指そうと思ったのです。
父が好きでよく見ていたドラマには時代劇や法廷がよく出てきました。
それを一緒に見ていた私は「カッコいいな」と幼心に思ったのを覚えています。
「勧善懲悪」
カッコいいなと思いました。
悪い者は成敗される。
正しいものが救われる。
私のすごく好きな言葉で、好きな考え方です。
だから私は検事という職業に憧れました。
弁護士は、悪い人も救う場面があったからです。
法治国家に生きる自分にとって
こんなにストレートに法へ携われる職業はないだろう。
こう考えたのです。
それからの私は
法律家、検事になりたいという一心で高校まで真面目に進学しました。
進学した高校は県下では3本の指に入る進学校。
進学校ではありましたが校風はとても自由で式典以外は制服も自由。
全てが順調でした。
厳しい環境だったかもしれませんが、
それほど私は苦労を感じませんでした。
混声合唱の部活に所属し楽しい高校生活を送っていました。
3年生になると受験モード、一色。
その空気を感じ自分も勉強に明け暮れていたのでした。
当時は大学入試センター試験というものがあり、
その結果といえば、決して良い結果ではありませんでした。
希望していた国立大学の法学部への進学も難しい状況、
センター試験の翌日学校で自己採点を終え、途方にくれた私がいました。
夕暮れのなか歩きながら私は迷っていました。
夢のため浪人をすべきか、何か他の道を探すべきかという事を。
家にたどり着いた私は、
いつの間にか洋服を着たまま眠ってしまっていたのでした。
その翌朝、1995年1月17日午前5時46分、世界は変わりました。
阪神淡路大震災。
私を呼ぶ父と母の声で私は目を覚ましました。
目を開けると、とんでもない世界が飛び込んできたのです。
顔の十数センチ横に私の学習机が本棚ごと倒れてきました。
その後も壮絶な地響きと強烈な横揺れを
どれくらい体験したのかわかりません。
動くこともできなかったのです。
父の枕元には鏡台が倒れてきましたが間一髪で助かりました。
母は父の隣に寝ており無事。
兄は別の部屋で寝ており無事。
幸いなことに私の家族は
まるで神に守られたかのように全員無事だったのです。
揺れが治ってきても、私達はなかなか動くこともできませんでした。
目の悪い私はメガネの在り処も分からず、
薄暗い闇の中で一体どんな状態になっているのかさえ
分からなかったのです。
地震が収まってからどれくらい経ったのでしょうか、
ようやく朝日で家の中が見えてきた時、
またもや衝撃的な光景が見えてきたのでした。
家具は倒れ、本は飛び出し、机も倒れ、
足の踏み場も全くない部屋がそこにありました。
一歩廊下に出てみるとその風景は不気味でした。
どこからか取り出した玉を廊下に転がす父。
その玉は勢いよく転がっていきました。
そう、家は大きく傾いていたのです。
階段を見ると、曲がる向きが正反対方向に大きく曲がっていて、
いつも見る風景がそこには全くなかったのです。
全ての思考が停止し、ただ私たちは時間が過ぎるのを呆然と待ちました。
朝日が差し込んでくると、
さらに衝撃的な光景が広がっていました。
隣の家の1階が私の家の1階に差し込まれていたのです。
そしてさらに衝撃的なことに、
私の家の1階が差し込まれた隣の家の1階で青年の方が亡くなりました。
どこからか人がやってきて電動ノコギリで懸命に救おうとしていました。
しかし残念ながら青年の命は助からなかったと後に知りました。
昼間になるとどことなく煙を感じたのです。
ふと見ると自宅近くにある市場から火の手が上がり、
その火の勢いが私たちに迫ってきていたのです。
火が迫るなか、
気づけば私は赤本1冊を手に握り締め家を後にしていました。
兄は私の制服とお年玉を持ち出してくれていました。
私は赤本。
今思えば、
よほど将来の夢が諦めきれなかった私がそこにいたのかもしれません。
小学校に避難した私たちをさらに火の手が迫ってきたのです。
さらに私たちはもっと離れた中学校に避難したのでした。
煤で太陽が覆い隠された夕暮れには
私の自宅のあたり一帯は炎に包まれていました。
やっとの思いで夢を叶えて買ったばかりのマイホームと、
全ての思い出がその中に消えたのです。
父が呆然とたたずんでいたのを私は忘れることができません。
初めての食事は、ふかし芋でした。
公園でボランティアの女性が炊き出してくれたふかし芋です。
こんな美味しいふかし芋は生まれて初めてでした。
私はこの味を一生忘れることはないでしょう。
そんなあたたかい思いを感じた私は
受験どころではない。働かなければ。
と強く思いました。
全ての夢を諦めた私は父に働くと伝えたのですが、
父はこう言ったのです。
アホか、受けろ。何も心配するな。
絶望の淵に立たされていた私は、
涙が出るほど嬉しかったのを覚えています。
私は親戚の家を転々としながら4つの大学を受験したのです。
私のパートナーは赤本が1冊のみ。
こんな状態で受かるわけない、
そう思いながら受験したのです。
部活仲間の中には被災されていない人もたくさんいたのです。
普通の生活ができている仲間が参考書を持ってきてくれたのです。
ありがたかったはずなのに、私はその参考書を見るのも嫌だったのです。
そう、私の心は震災で歪み卑屈になっていたのです。
諦めていた大学受験でしたが、
唯一合格したのが関西大学法学部法律学科でした。
私はすっかり関大へ行くつもりになっていました。
夢の扉が開いた瞬間だったのです。
先生も親戚もみんな関大への進学を支援してくれていました。
しかし私は公立大学への進学を決断したのです。
私は夢を諦め県立大学へ行くことを決めたのです。
親からは公立大学へ行って欲しいと言われていました。
県立大学は落ちれば良いのに
と心の中で思っていたのは事実です。
結果は幸か不幸か合格。
家が全焼した以上、
私には夢を諦めるしかなかったのです。
その後、私の人生はどうなったのか。
[第2話]でお待ちしています。
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