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時の流れのなかで傷つき、それでも生きるということ

月に1回ほど、私は名曲喫茶に行く。

重厚な扉を開けた先にドッシリと鎮座する、真空管アンプ。マスターの淹れる、ブランデー入りのコーヒー。寝台列車を彷彿とさせる、独特な配置の座席。そして何より、重厚なクラシック音楽だけが流れる空間。

この間も友人と一緒に、阿佐ヶ谷の名曲喫茶『ヴィオロン』に行ってきた。彼女とは二言三言しか会話を交わさず、わたしは一人、恍惚としてアンプの方に耳を傾けていた。久々の再会にもかかわらず、しがないクラシックオタクを音楽の中で自由に泳がせてくれる友人がありがたい。

ぐるりと辺りを見渡すと、コントラバスの裏板や、擦れてカバーの曲名が読めなくなったレコードの山、埃を被った木彫りの人形など、いつからそこに在るのか分からないようなものが、わたしを取り囲んでいる。

流れている曲は、18世紀後半に作曲されたクラシック。レコードも、数十年前に作られたものだ。きっと傷物なんだろう、プツプツと独自の呼吸をしながら、2021年現在、こうしてわたしの耳へとゆるやかに侵入していく。

最近生み出されたものと、昔から存在するもの。
意図されて置かれたものと、無造作に放られたもの。
それらの区別すらつかず、しれっと当たり前のように在るものたちに囲まれて、わたしは肩の力を抜き、安堵する。

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ついこの間、2階に住む大家さん夫婦の、旦那さんが亡くなった。お妻さんはポツリと「時薬(ときぐすり)が、ゆっくり癒やしてくれるのを待つわよ」と、広くなった家のダイニングで呟いた。

時間の経過は、大切な人を天国へ連れ去る。
時間の経過は、深い慟哭に寄り添う。
時間の経過は、人を変えてしまう。
時間の経過は、人を変えてくれる。

時の経過を目の前にして、呆然と立ちすくむ自分もいれば、時の蓄積によって産み出されたものの揺りかごの中で、安堵する自分もいる。自分を奈落に突き落とすものも、その傷を癒やすものも、実は同じ何かからできている。

止まることのない時間の中を生きることは、その二面性を受容するということなのかもしれない。完全な喜びも、完全な悲しみも無いまま、いや、恐らく、完全な感情なんて生涯わからないまま、わたしたちは生きていく。

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佑梨
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