「子猫物語」にみるムツゴロウさんの動物観

先日、ムツゴロウさんこと畑正憲さんが逝去されました。
4月17日の米寿を目前にした4月5日のことでした。
ムツゴロウさんといえば、動物番組の主演を長年務め、また北海道に本拠を置き四六時中を動物に囲まれた人生を送った人です。
その動物愛は、一般の動物好きとは一線を画していました。
私自身もムツゴロウさんの番組を見て、その姿に圧倒されたものです。

さて、ムツゴロウさんは生前、といっても40年近く前ですが「子猫物語」という映画を撮ったことがあります。
これは子猫のチャトランが、パグのプー助とともに大自然を冒険する、というストーリー仕立ての動物映画です。
私は今回の訃報を聞き、ムツゴロウさんについて調べるうちにこの映画を知りました。
第一感は、本物の動物を使ってよくこれほどの画が撮れたものだという感心でした。
しかし、もっとも大きな学びは、動物たちには種を超えた友愛の精神が存在するということでした。
これまで私は、生き物というのは自然界においては、同種の者同士でしか助け合ったり、遊んだりはしないと考えていました。
もちろん、共生関係にある種同士であったり、人が飼いならした個体かつ、同じくらいの力関係の種類(犬と猫など)であったりすれば、そういうことがあるのは知っていました。
ところが、この映画ではパグと圧倒的に大きなクマがじゃれ合い、パグと狐が遊び、子猫が子豚に混じって母豚の乳を吸っているシーンなどが何度も何度も映し出されます。
とりわけ私の目を引いたのは、シカとチャトランのシーンです。
シカはチャトランを抱くようにして座り、チャトランもまたその中で眠っているのです。
人為的にシカと猫をこのような関係にする方法は私には思いつきません。
もちろん、「映画の演出にすぎない」といわれればそこまでですが、やはり動物である以上、それらの「行動」は人間の俳優による「演技」とは根本的に異なるリアリティがあります。

一方で、この映画は動物虐待であると指摘する人が一定数いるようです。
確かに、素直にみれば、チャトランはあまりにも危険な撮影をさせられているように感じてしまうでしょう。
私自身、猫と暮らしているので、なかなかにハラハラさせられました。
ただし、タイトルが示すように「子猫物語」は「物語」なのです。
そこには明確な脚本があり、その効果を最大限に引き出す演出があります。
そして、チャトランの「冒険」を描くなら、チャトランの「ピンチ」を演出するのは当然です。
ですから、一見して動物たちが危険な目にあっているように見えたとしても、それは演出の効果が含まれた印象なのです。
例えば、時代劇の殺陣を見て、「刀で打たれるときに、はずみで怪我をするかもしれない」と思うのは正しくても、「主人公が斬られてしまうかもしれない」と心配するのは映画に没入している時だけにしなければいけません。

以下、動物たちがピンチに陥るシーンについて、単純に映画を鑑賞して分かる限りですが、撮影時の安全性を確かめていきます。
ある意味、とても無粋な話ですので、特に気にならなかった方は読まなくても良いかと思います。

①チャトランがカニに顔を挟まれるシーン
*完全室内飼育でなく、しかも都市部でなければ「自然」な様子でしょう。別に危険だとは思えません。

②チャトランが木箱に入った状態で川を流されていくシーン
*天候や川の流れは穏やかで、不測の事態が起こってもスタッフはすぐに助けに行ける場所にいたと見られます。また、この直前のシーンで描かれているように、猫はこの程度の川なら泳げます。なお、一部記憶違いをしている人もいますが、チャトランが乗っていたのはダンボールではなく木箱です。

③プー助がクマと格闘するシーン
*作劇上は格闘している風ですが、本気で戦っているのではなくじゃれているだけでしょう。相当訓練された猟犬でもない限り、クマに向かっていくとは思えませんし、クマの方も無駄な争いなどせず逃げるのが普通です。そもそも、このクマはツキノワグマでロケ地の北海道には生息しませんから、犬や人間に慣らされた個体でしょう。

④滝を木箱に入ったまま流れ落ちるシーン
*映像では、演出として滝の勢いが強調されています。しかし、冷静に見れば、華厳の滝のような断崖絶壁ではなく、岩が滑らかに削られた幅の広い滝です。こうした滝は人間が滑り台として遊ぶこともあります。箱がひっくり返ったりするかは、同じ木箱に猫と同じだけの重しを入れて流せば検証できます。加えて、後述するように、猫は落下に対して非常に高い耐性をもっています。

⑤毒キノコを食べたあと、草を食べて吐き戻すシーン
*このシーンではナレーションによって、毒キノコを食べたように示唆されていますが、おそらく食べたのは毒キノコではないでしょう。映像でもチャトランが特別気持ち悪そうにしているわけではありません。また、草を食べて毛玉などを吐き戻すのは健康な猫でもよくある行動です。このシーンは、猫の習性を紹介するための演出と見るのが妥当でしょう。

⑥チャトランが線路に入り、頭上を通過する列車をやり過ごすシーン
*ここでは列車とチャトランのカットを組み合わせて、そのように演出しています。注意して見れば、チャトランと列車が同時に映るカットはないことがわかります。

⑦カモメに追い立てられたチャトランが10mはあろうかという崖から落下し、海に着水するシーン

このシーンが最も物議を醸しているようです。
カット割りを見る限り、自ら飛び込んだのではなくスタッフが海に投げ込んだように見えます。落下の経緯はどうあれ、危険に見えます。

*このシーン、人間が想像するほどには危険でないと考えます。
まず前提としてチャトランは特に大きな怪我を負っている様子もなく、自力で泳いでいます。
なぜ無事なのでしょうか。

第一は、体重が軽いからです。
猫は成猫で4~6kg程度ですから、子猫のチャトランは2~3kg程度でしょう。すなわち2リットルのペットボトルを投げ込んだ程度の衝撃ということになります。
実際、猫は高さ6m程度なら落下しても怪我を負わないとされます。
人間なら3m程度が限界でしょう。危険な高さの感覚が全く違います。

第二に、海に落下しているからです。
当たり前ですが、水に飛び込むほうがダメージは小さくなります。
人間の場合ですら10m=地面の場合の3倍くらいでは怪我をしません(高飛び込みの高さは10m、川遊びでも10mの飛び込みスポットがあります)。
猫がどのくらいの高さから水に飛び込めるかの直接的な数字は見つかりませんが、人間の場合と同じ比率とすれば、猫は20mの高さから着水しても無傷ということになります。
また、空中で落下の体勢を整えることは猫の得意技です(映画でも猫ひねりを披露して、足から着水していますね)。
よってこのシーンの崖が15mあったとしても十分安全と考えます。

以上、映画の各シーンについて、安全性を検証してみました。
そもそもの話ですが、ムツゴロウさんがただ徒に動物を虐待するというのが、不自然な話です。
意外性のあるスキャンダラスな話として、まことしやかに広められた噂ではないでしょうか。
週刊誌の記事になった虐待を裏付ける証言のうち、素性を明らかにしているのはムツゴロウさんの弟さんです。
しかし、兄弟間にはそれ以前から金銭的問題を含む確執があったようです。
また、当然ですが映画制作側は虐待を否定しています。
つまり食い違う主張が2つあるわけですが、人生を北海道の自然の中で動物とともに暮らすことを選択し、あれほどまでに動物愛を体現していた人が虐待するとは到底信じられません。
弟さんにも事情があったのかもしれませんが、私には信頼性に欠ける証言だと思われます。

先に示したように、撮影において動物の安全に対する配慮は十分なされていたと考えています。
ムツゴロウさんは培ってきた動物に関する知識、経験から安全だと判断して撮影を実施したと考えるのが自然でしょう。
とはいえ、ムツゴロウさんの奇特な点は、そのあまりに強い動物への信頼だと思います。
普通の人は、たとえ理屈の上ではまず間違いなく大丈夫と思っていても、パグとクマをじゃれつかせたり、猫を崖から落としたりはできないのではないでしょうか(私には無理です)。
ところが、ムツゴロウさんはできてしまう。
それはムツゴロウさん自身についても例外ではありません。
ヒグマだろうと、トラだろうと、ライオンだろうと、ただ危険で怖いだけの存在として片付けたりしない。
肉食動物であり、その気になれば人間など一捻りにする力をもっていることを認めた上で、なお、縄張り争いや狩りの対象にならなければ、種族を超えた親交が結べると信じているのでしょう。
また、動物達が自然界で生き残るために数百万年に亘って発達させてきた、それぞれの能力を心から信じているのでしょう。
だからこそ、素人目には無茶とも思えるようなレベルの演出をして、猫の生命としての力を感じさせたかったのではないでしょうか。
きっとムツゴロウさんが望んだのは、「こんなに可愛らしい猫が大変な目にあって可哀そう」でなくて、「子猫ってこんなにもたくましい野生の力があるんだ」という驚きだったのだと、私は思います。

さて、こうした考えを踏まえてもなお、この映画は虐待的であるとみることも可能です。
ここからは動物映画全体、あるいは動物利用全体の話となります。
各シーンにおいて動物たちの安全が担保されていたとしても、映画撮影という人間本位な目的のために動物たちにストレスを与えた、という見方です。

では、いかなる場合においても動物たちを人間の都合に従わせることは認められないのでしょうか。
だとすればペットの飼育や家畜化、狩猟、生息域の自然への干渉といったことはすべて認められないことになり、それは人間に対する精神的・肉体的なダメージとなります。
人間は、所詮他の動物に迷惑をかけずには生きていけないのです。

このことは全人類がベジタリアンになっても解決しない問題です。
人間が食用にするための穀物や果実、野菜などを栽培するために広大な農地を確保し、用水を確保するためにダムなどを建設して川の流れをコントロールし、農作物を食害したり病原菌を運んだりする虫や動物を排除しなければなりません。
私には森林や原野の開拓、灌漑、農薬や化学肥料、農業機械といったもの抜きで、人類が飢えないだけの食料を生産する方法は思いつきません。
もちろん将来の技術発展により軽減あるいは完全に解消できると期待はしています。
しかし現時点では不可能です。
また、動物をペットにして心から愛している人でさえ、不自然な環境下に動物を束縛しているという、シニカルな視点もありえます。

しかし、だからといって人間と動物の関係を一切断ってしまうのは、やはり誤りでしょう。
人間側の都合、動物側の都合、その折り合いをつけて関わっていくしか無いと私は思います。
こんなことはある意味当たり前で、私が言うまでもなく、そうした人間・動物の関係は、歴史と共に複雑かつ有機的に構成されてきたのでしょう。

さて、この映画について言えば、欠かせない視点として、日本映画史上稀に見る興行成績を記録した点があります。
マスコミによる強いプッシュがあったからという見方もありますが。
ともあれ多くの人々に鑑賞され、そのメッセージが伝えられたということは間違いありません。
この映画を素直に見れば、「動物は虐待しても良い」などという感想を抱く人は皆無でしょう。
そうではなく、自然界の動物の、厳しさ、優しさ、命の尊さが一貫して語られています。
こうした、非常に素朴なメッセージは、きっと鑑賞者に対して動物に対する親愛の情を引き出したと思います。
このことは、この映画の重要な功績です。

しかしこれも、物わかりの悪い人間に映画という回りくどい方法で動物に対する情愛を養わせてやろうという、人間本位な功績かもしれません。
ですから、それに付き合わされた動物たちにとっては、迷惑千万かもしれません。
それでも、この映画で多少迷惑を被った動物たちのお陰で、人々に動物愛護の精神が生まれたのであれば、それは翻って、この映画に出演した、猫、犬、クマ、豚、狐などへの恩恵として返っていくともみなせます。
私は、この映画には動物たちにかけた迷惑以上の功績があるのではないか、と考えます。

ムツゴロウさんもまた、そうした人間と動物の「お互い様」のバランス感をもって動物と接していたのではないでしょうか。
動物たちと種族を超えた親交を結ぶことはできる。
その様子は、人と動物の垣根を壊しているように見える。
けれども、あくまでヒトと動物、お互い譲れない部分がある「他者」だということは否定しない。
これはあくまで「ヒト」として、「イヌ」や「ネコ」や「クマ」などと関わっていく責任を負う、非常に成熟した考え方だと思います。
コトバでいうのは簡単かもしれませんが、それを一生涯を費やして体現したムツゴロウさん、こと畑正憲さんはやはり唯一無二なのだと思います。

私の浅はかな勘違いもあるかもしれませんが、ムツゴロウさんはそのような方だったのではないかなと、私は思います。
最後に、ムツゴロウさんのご冥福をお祈りいたします。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?