野性歌壇 短歌鑑賞 2020年 2月号 加藤千恵 選 佳作 10首
投稿歌人 八号坂唯一です。ベッドとパソコンと食卓を往復する生活で2年が過ぎようとしています。
作業すると眠たくなるし、趣味のゲームをしようとしても眠たくなる。youtubeで動画を見ていても眠たくなるという始末。もう40になろうというのに、将来の事を全く考えられていません。そんな人が今年は短歌に逃げ込んで一年間やり切ろうと思って始めた短歌鑑賞ですが、まだ3月になろうというのに2月号が終わっておらず、このままでは4月号も家に届いてしまう。(※届きました。どうしましょう)
そんな筆者のどうしようもなさはさておくとして、文章を書いていて思ったのは、自分には人に伝えるためのフォーマットが無いんじゃないかという欠点でした。毎回、短歌と向き合って思った事をそのまま書いていたのですが、そうすると短歌ごとに文章の流れがバラバラになって、何度も文章に不足がないか確認してしまう。その確認作業が次第に面倒になって、鑑賞を先延ばしにしているのではないかと思ったのです。今回からフォーマットに意識して鑑賞していきたいと思います。
「小説野性時代2020年2月号」の393ページを開いてください。今日は右側の10首を鑑賞します。
テーマ詠「日付」
2020年2月号 加藤千恵 選 佳作10首
神奈川県 遠藤健人
テーマ詠のモチーフ『トークの日』
19日(じゅうくにち)は、暦上の各月における19日目である。
(中略)
・トークの日(日本) NTTが制定。「トー(10)ク(9)」の語呂合せ。(以下略)
19-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
詠み手は独り言をつぶやく癖があるのだろうか。それとも、単にその時は暇だったのか、あるいは淋しかったのか。そばに置いてあったアボカドを何気なく手に取ってみた。なんとなく眺めているうちに、アボカドの手に収まるしっくりとくる重さや皮に無数についているくぼみが、次第にスマホの様に見えてしまう。
何か話してみようかなと詠み手は思った。アボカドの向こうには誰も居ないのは分かっている。なんとなくしてみたかっただけだ。しかし、何を話せばいいのかわからない。始めてしまったのだから、もう少しぐらいは続けてみようと思って視線を彷徨わせる。詠み手の目に入ったのはカレンダーだった。そのカレンダーの19日の欄には、小さく今日の記念日としてトークの日と書かれている。それを見て反射的にアボカドに向かって「毎月19日はトークの日だよ」と話しかける。アボカドからは何も返ってこない。
毎月19日をトークの日と決めたのはNTTである。NTTは電話会社であり、電話を使ってもっと会話してほしいという思惑があったのだろう。過去にトークの日というCMを流していたらしく、その当時の映像は動画サイトで見ることが出来る。
アボカドを電話、スマホに見立てたと私が想像したのは、このトークの日という記念日から連想したものである。詠み手がアボカドを持ってからトークの日を知ったのか、それともトークの日を知ってから何かに話そうとしてアボカドを持ったのか、その順番は分からない。
この短歌では詠み手が誰かに話そうと思っても、周囲には誰も居ない。もしくは人が居るのかもしれないが、詠み手には関心がない。孤独ではあるがそこに悲壮感はなく、ただなんとなく孤独を持て余している雰囲気がある。詠み手の孤独を読者に印象付けたいのであれば、もっと内面の描写を入れるはずである。
アボカドは見た目と大きな種から、他のどの野菜とも果物とも似ておらず、どちらにも交われていない。アボカドは孤独な存在かもしれない。短歌上で孤独なもの同士が引き合わさってしまった。ここで心の交流なりが詠み手に生まれるような記述があれば、明るい雰囲気になるのかもしれない。
しかし、アボカドは果物で孤独とも思っていないし何も答えてはくれない。作者は詠み手の行動だけを書くことで詠み手を突き放した目線で見ている。詠み手はこの短歌で何者とも交われていないままだ。それは何時までも持て余したままの孤独であり、実はふとした時に誰しもが抱えてしまう感触の無い孤独なのかもしれない。
詠み手はそれでも何かに話しかけるだろう。どこから何かが帰ってくるかもしれない。それがたわいもないトークの日という話だったとしても、きっと何かしらの返答があるだろう。この感触の無い孤独を少しでも癒してくれると信じているのである。
新潟県 山崎ほたる
テーマ詠のモチーフ『虫の日』
6月4日(ろくがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から155日目(閏年では156日目)にあたり、年末まであと210日ある。誕生花はイロマツヨイグサ、マツバギク
(中略)
・虫の日(日本) 「カブトムシ自然王国」を宣言している福島県常葉町(現:田村市常葉町)の常葉町振興公社(現:田村市常葉振興公社)が制定。「むし」の語呂合せ。(以下略)
6月4日-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
詠み手は6月4日に生まれた。その日は虫の日だと何処かの本かネットの情報で知ったのだろう。本来の虫の日は、虫と人とが共存できる街づくりを目指して制定されたものである。しかし、詠み手は虫の日という、虫の部分だけに意識が向いている。そして勝手に自分の性格を合点している。
何かしらの違和感を感じているのだろう。それは周囲に馴染めないという不満や、社会のルールを守れず怒られてしまったという事実からかもしれない。それはいつか大人になれば解消されていくのだと思っていた。しかし、今年で25歳になるけれど、未だに集団の輪に加わる話しかけ方がぎこちないし、人に言われたことをちゃんとできずに怒られてしまう。それもやはり虫の日に生まれてしまったからだろうと詠み手は思ってしまう。
自分が何かを出来ないのを自分の過去に原因があると思ってしまう。これは一定の人には存在する病の様なものである。しかし、実際には本人が思っている過去が原因ではない場合もある。この短歌でも詠み手は虫の日に生まれたことで、人の世界に馴染めないと思おうとしているが、6月4日に生まれた人が全員、人の世界に馴染めないかというと違うのである。
それでもこの短歌に共感してしまいそうになるのは、人との関係が上手くいかないという悩みと、それが過去の自分にあるのだと思い込もうとする弱さが誰にでも存在するからである。この短歌は形こそ虫の日という日付をモチーフにしているが、その芯には人としての不能感があり、それを人と虫という違う世界を使って伝えているのである。
虫の日の本来の意図は、人と虫とが共存できる街づくりを目指そうと制定された記念日である。人と虫という違う世界が一つの世界で問題なく生きていけるように願っているのであり、詠み手がそのことを知ってか知らずかその部分は見せないように書いている。
そのような虫の日の事実と詠み手の認識の不一致も、この短歌における人間における他者と自意識の不一致を表しているのかもしれない。詠み手の25という年齢を、読者はまだ大丈夫と思うか、それとも一生変わらないよと思うか、それは読者の経験によって違ってくるだろう。
それでも詠み手の悩みの度合いは本人にしか分からないのであり、その断片をこのような短歌や言葉で把握するしかないのである。その断片の見え方によって、他人はその人に対して好き嫌いという印象を持つのだろう。このぎこちない詠み手を、貴方は好きだと思っただろうか。
北海道 千仗千紘
テーマ詠のモチーフ『誕生日』
誕生日(たんじょうび)は、特定の人や動物等の生まれた日、あるいは、毎年迎える誕生の記念日のこと。「○年〇月〇日」のような「年」の部分をつけてある特定の人等の誕生の日を示すこともあれば、単に「○月○日」のみで記念日を示すこともある。前者の、ある特定の人等の誕生の日である「○年〇月〇日」の用法は、生年月日(せいねんがっぴ)と同義。(以下略)
誕生日-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
詠み手は誕生日に対して、もう良い印象を持っていないようだ。詠み手はその日誕生日を迎えたのだろうか、それとも誰かから誕生日について何か話を振られたのだろうか。詠み手は今年の誕生日も普通の一日として過ごしたかったのだろう。しかし誕生日を意識させるような出来事が起きてしまう。相手には感謝の言葉を伝えながらも、内心ではまた一つ歳を重ねてしまったと後悔とは言い切れないもやもやした感情を抱えてしまう。
おそらくは詠み手も誕生日を迎えることが嬉しかった時期があるはずである。誕生日自体は無条件に人々から祝福される日である。特別な日でないはずがありえない。この世に生まれる事自体が素晴らしい事であるはずなのに、ある時期を過ぎると誕生日は自らの人生の残り時間を意識させてしまう。詠み手も今はその自らの残り時間を意識しているのだろうか。何回も何回もという皮肉めいた言葉の裏側には、もうあと何回誕生日を迎えられるだろうか、という焦りが含まれているように見える。
何回誕生日を迎えられるかは、人それぞれである。誕生日を迎えられず亡くなった嬰児や、百歳を迎えて大往生した人もいる。しかし、生まれるという日がある以上、誰しもが必ず一回は誕生日を迎えている。これを自分だけにしか得られない尊い日と思うか、それとも誰にも存在する普遍的な日であるかと考えるのかはその人の状況によって違う。
数字にするとやや冷たい印象になるが、誕生日は本人から見れば一年に一日、人生の何万日の内に数十回程度しか来ない日である。それを考えると特別じゃない日だとは客観的に見て言えないだろう。しかし、詠み手は誕生日を特別にしたくない整理できない感情がある。
誕生日が何回も何回もただ来る、とこちらにやって来るかのように考えてしまうのは、それ以前にも自分の歳の数に一つ足した回数、何回も何回も来たように考えてしまうからだろう。未来は本当にやって来るとも限らない、もしかしたらそれが最後の誕生日になるかもしれない。しかし、その無常さを見えなくさせてしまうほどに、詠み手は日々に慣れすぎているのである。
その客観的な指摘は、詠み手には通用しない。詠み手にとっては誕生日も慣れてしまった日常の一日になってしまった。むしろ年齢という積み重ねが自分の許可もなく勝手に一つ増えてしまった。年齢は、人間を客観的に分類させる大きな数字である。これから知り合う人は、自分よりも若い場合が多くなる。そしていつか死ぬことを嫌でも意識付けさせられる。それが生きていくということであるが、詠み手にはそれが納得できない。だからそんな数字はいらないと言葉にしてしまうのである。
そのような生きることに対するひねくれ方を、読者は共感するだろうか。おそらくは若い人であれば誕生日はさらに大人になれて嬉しいと思うだろうし、死と寄り添っている年老いた人であれば、ここまで生きられてありがたいと思うだろう。
この短歌は、生きていることに慣れ始めている読者に対して、投げかけている。何回も何回もと重ねてしまうほどには、まだこれからも生きていけると思っている人達。そのような人たちは日々の生活を脅かされているとは感じていないのだから、確かに幸せな人たちである。
この短歌にはもう一つ裏の皮肉があるように私は思う。それは、そのように詠み手が迷惑に思っている誕生日という一日を、貴方は生まれてから全ての年分覚えているのかということである。何回も何回もと繰り返しているのは、その日付だけであり、その日に自分が何をして、誰に祝われたのかまでは覚えていないだろう。だから詠み手は、ただ来る、と言い切ってしまうのである。誕生日という特別な一日さえ、人は普通の一日のように記憶の隅に折りたたまれてしまうのである。
だとしたら、誰からも祝われる大義名分が持てる一日ぐらいは、特別な日として記憶に残してもいいんじゃないか。このような皮肉めいた短歌の裏側には、過去や未来の詠み手からの提案が含まれているように私は思うのである。
埼玉県 雨月茄子春
テーマ詠のモチーフ『認識した日、父を刺した日』
認識は基本的には哲学の概念で、主体あるいは主観が対象を明確に把握することを言う。知識とほぼ同義の語であるが、日常語の知識と区別され、知識は主に認識によって得られた「成果」を意味するが、認識は成果のみならず、対象を把握するに至る「作用」を含む概念である[1]。(以下略)
認識-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
詠み手は生まれて一年も経っていない自らの赤ん坊をあやしている。普段は薄く目を開けて遠くをぼんやりと見ている我が子が、ふと目を開いて私の顔の動きに合わせて黒目を動かしている。詠み手が赤ちゃんに笑いかけると、安心したかのように我が子も微笑み返してくる。日に日に成長する我が子に対して、さらに愛情が湧いてくる。
別の遠い遠い国では、子どもが父親に向けてナイフを突き立てていた。ナイフを突き立てた子どもが、父親にどのような憎しみを抱えていたのかは分からない。それは日々父親に対して積み重なったものかもしれないし、突発的に生まれてしまったものかもしれない。父親は我が子に対して言い知れない恐怖を感じている。一体何が間違っていたのか、分からないまま父の体には子どもの憎しみの形が突き刺さっている。
厳密に読めば、読点で打たれた文の前後には関連性は無い。きみが僕を認識した日、という上の句の認識には読者によって様々に解釈できるだろう。解釈には恋人になる前の二人、や、動物と詠み手、などといったものがある。
しかし、やはり下の句による親に与える明確な子どもの暴力行為を見れば、上の句における不十分な人物関係描写を家族の対比と補完して読む、というのが作者が想定している読み方なのではないかと考える。
同じ時間を共有するという作品には、谷川俊太郎の詩『朝のリレー』や、長谷川 義史の絵本『ぼくがラーメンたべてるとき』などがあり、どちらも子供の目線から世界の人々の在り方を想像するという内容であるけれど、この短歌ではそのような世界の人々の在り方を親という目線で見直している。
子どもが親を選べないように、親も子どもの成長を選べない、と書いてしまうと育児に無責任な親であるとして批判されてしまうが、しかし遠い遠い国では親が子どもに刺されているという事実も受け止めなければならない。子どもは尊重しなければならない一つの人格であり、どのような事情であれ親を刺すのは子どもの選択である。
それをその家族だけの事情とするなら、やはり、子どもの成長には家族ごとに方向性があり、親は子どもに成長の選択肢を増やすことが出来るけれど望んだ選択肢を選ばせるのはできない、ということになる。
詠み手は、上記に挙げた作品、もしくはそれに類する内容の作品を思い出しているのかは分からないが、きっとそのような同時性の世界の在り方を意識できる人である。そして、それは何故か悲観的な想像に働いている。我が子が親である自分を認識してくれた日に、子育てを失敗していつか子どもに殺されてしまうんじゃないかという想像が出てくるのはあまりにも悲しい。
短歌とは言え家族の事情に首を突っ込むつもりはないし、私も人の事を言えるような生活状況でもないので、これ以上は何も言えなくなってしまう。この短歌の家族の関係性が壊れないまま、健やかに赤ん坊が成長してほしい。そして、すでに壊れてしまった遠い遠い国の家族には、一刻も早く家族を解散して、それぞれの人生を選んで幸せに欲しいと願うばかりである。
千葉県 芍薬
テーマ詠に使われたモチーフ『カルテ』
診療録(しんりょうろく)、カルテ(独: Karte)[1]とは、医療に関してその診療経過等を記録したものである。
診療録は狭義には医師が記入するもののみを指す[1]。広義の診療録には手術記録・検査記録・看護記録等を含め診療に関する記録の総称をいう[1]。全体的な概念としては診療情報、または医療情報とも言われる。 (以下略)
診療録-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
詠み手の父は何か重い病気を患って入院している。そして、おそらくは外出もできない程の状態で病床に横たわっている。父の見舞いに訪れた詠み手は、その目を閉じて微睡んでいる父を見ながら昔を思いだしている。父は日記をつける習慣が無かった。入院している今はもう日記を書くことさえできない。
病室に担当医と看護師が入ってくる。回診の為に父を起こし、いくつかの質問と触診を行う。担当医が診察を行いながら、慣れた手つきで手元のカルテに文字を記入していく。それは詠み手にはなんと書かれているか、まったく分からない。今日の父の容態であることは間違いないだろう。担当医がしばらくしてカルテにさっと句点を打つ。そして、慣れたように父の病室を後にした。カルテには父が生きている、という記録が今日も刻まれた。
句点が落ちる、という短歌の終わりをどのように解釈するかは、読者の悲観的度合いによって違ってくる。詠み手には失礼であるけれど、この短歌を初めて読んだ時、父が死んだときを詠んだ短歌だろうと考えてしまった。だとしたら、この短歌は詠み手の時間がある程度経った頃に作られた、非常に冷静な描写をしている短歌であろう。
非常に楽観的に短歌を捉えるとすれば、父が軽い怪我もしくは病気の為に長期の通院をしなければならず、その付き添いとして詠み手が一緒に診察室に入っている時に見た情景を表した短歌として読める。病院に対して、どのようなイメージを持っているかによって、この短歌の瞬間的な受け取り方が変わってくる。
健康な人であれば一年に数回の健康診断という面倒なイメージだろうし、毎週通っている人であれば待合室で会話する人もいるほど慣れてしまった日常のイメージがあるだろう。何年も病室で生活している人には、その世界の風景に諦めの感情が混じっているのかもしれない。
これはあくまでも患者という目線で見た場合であり、医師や看護師の勤めている診療科によっても違ってくるだろう。それぞれの事情をさも分かった風に書くのはおこがましいけれど、病院という単語でさえその読者の状況によって様々に瞬間的なイメージが変化してしまう。
もう一度短歌だけを読む。ここには日記とカルテという二つの記録が出てくる。詠み手は日記は自ら付ける記録であり、カルテは他人が付ける記録と考えている。これを主観と客観と置き換えることもできるだろう。そこには、父と詠み手の考え方の違いが見えてくる。
父は日記を付けない、記録しなくても日々には困らないという楽観的な主観で生きている。しかし、現実には父は通院、あるいは入院しなければならない程度には困っている状況にある。それは、どの人間でも生きていればそのうちになってしまうものであり、詠み手はその将来の不安に敏感である。
詠み手は、おそらく父に代わって日々を記録しているのだろう。日記などと括っている父もいつかこの世を去る。それまでに何かしらの父の記録は残しておきたい。こうした短歌も一つの父の記録である。この記録が何かの役に立つのかは分からない。しかし、いつかこの記録の積み重ねが詠み手にとって何かしらの安らぎになると考えている。
千葉県 三澤皐月
テーマ詠のモチーフ『カレンダー』
カレンダーとは、日付・曜日などを表形式などで表示し、容易に確認できるものを指す。七曜表(しちようひょう)とも言う。
(中略)
日本のカレンダーは、普通、縦の列が左から日曜、月曜・・・土曜と7列ある。そして、横の行は一般には5行であり、1日が金曜または土曜から始まる場合に6行目が必要になることがあるが、その場合も新たに行を付け加えず、5行目のマスを分割したり斜線などを入れて2週分を詰め込むのが一般的である。(以下略)
カレンダー-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
詠み手は何らかの状況で、ある人の誕生日を知った。それはその人と面と向かって聞かされたものではないだろう。今はSNSやLINEなどでも個人情報が分かるので、そのように一つ何かの媒体を挟んでいる。その人に対して好意的な感情を持っている詠み手はその人の誕生日を知り、近くのカレンダー、もしくは手帳を開き誕生日をまるで囲んだ。
誕生日当日にその人と会う事は無い。プレゼントも用意していない。直接おめでとうとは言えないけど、おめでとうという気持ちは詠み手にはある。目に見えるものがないから、本当に祝っているのか、その人にはわからない。けれど詠み手のカレンダーには、確かにその人の誕生日にまるがついている。このまるはたぶん消えないし、私の気持ちも消えないはずだ。
詠み手と誕生日を祝われる人との関係性はどのようなものであろうか。近しい間柄で誕生日を一緒に過ごせないという理由から、祝えない、と書いているのだろうか。それとも、こちら側が一方的に知っている人なのであろうか。この短歌では人との距離感の測り方が味わいになっている。
今の時代であれば面と向かって言えなくとも、電子ツールを使えば言葉だけでも相手におめでとうと伝えられる。しかし、そのような簡易な方法ですらおめでとうを伝えられないのであれば、詠み手とその人との間に何らかの障壁があると考えられるだろう。
下の句も、たぶん消えない、という推定になっている。大抵の場合、何かに書きつけた印は消えずに残っているはずである。どうして消えるという、消極的な発想に至ってしまうのか。何か詠み手が誕生日の人に対して、祝いたいけどその感情はいつか消えてしまう、というちぐはぐな印象を持っている。その誕生日を囲むまるからは、そのように想像してしまう。
上の句だけであれば、まだ前向きな文章として捉えられる。詠み手に何かしらの事情があって伝えられないけれど、貴方を祝うという気持ちはある。それはおめでとうという言葉で終わっているからであり、おめでとうから下の句と繋げてしまうと、その前向きなおめでとうに陰りが見えてくる。
と見るならばこの短歌は、おめでとう、以外の部分が後ろ向きな言葉で作られていると分かる。上の句も下の句もその人に対して距離を取ろうとしているけれど、おめでとう、という前向きな言葉でかろうじて繋がっているのである。
その気持ちさえなくなれば、おそらくは詠み手はその人の事を忘れてしまうだろう。また、その人を否定的に見ていたとしても、この短歌はきちんと成立するのである。おめでとうには、その人に対してかろうじてまだ繋がっているという、詠み手の相反する感情がにじんでいるのである。
祝えない、たぶん消えない、という言葉からこのように穿ちすぎに読んでみた。もちろん、純粋に詠み手がその人の誕生日を祝いたいけれど今は祝えない、祝う気持ちはずっとカレンダーのまるのようにずっと残っているはずだ、と詠み手に好意的な共感を持つのが普通だろう。
しかし、そのような好意的な共感を持てない人がいる人もいるだろう。たぶん消えないは、なぜ絶対消えない、とならなかったのだろう。完璧な肯定感で作られていない短歌を見た時、何かしらの裏側があるのではないかと読者は想像してしまう。そして、その想像により深く詠み手を理解した気になるのである。
神奈川県 中森さおり
テーマ詠のモチーフ『期限切れの豆腐』
豆腐(とうふ)は、大豆の搾り汁(豆乳)を凝固剤(にがり、その他)によって固めた加工食品である。
(中略)
植物性蛋白質が豊富。カロリーは比較的低いため、健康的な食品としてアメリカやヨーロッパなどでも食材として使われるようになっている。製法工程上、食物繊維の多くは製造過程で滓として分けられるおからのほうに含まれるため、豆腐は、大豆の加工品でありながら食物繊維の含有量は少ない。(以下略)
豆腐-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
詠み手は麻婆豆腐を作っている。冷蔵庫を開けたときに豆腐を見つけたのだけれど、その豆腐の消費期限が切れてしまっていた。冷奴にして食べようかと思っていたけれど、どうにもそのまま食べていいのか不安になってしまう。詠み手は火を通せば食べられるだろうと考えたけれど、素材そのままの状態が見えていてはまだ不安感が残る。
麻婆豆腐なら様々な調味料の色と香辛料の辛さでなんとか食べられるのではないだろうか。そう思った詠み手は早速、麻婆豆腐を作り始める。期限切れという憂き目に遭った豆腐が、さらには様々な香辛料や調味料によって、大鍋でさんざん痛めつけられている。大鍋はまるで血の池地獄のように煮立っていて、期限切れの豆腐が苦しそうにうごめいている。おそらくこの豆腐の前世は罪人で、いまもその苦しさの輪廻から逃れられないのだろう。
唐辛子、豆板醤、ラー油。全ての麻婆豆腐が辛いというわけではないのだけれど、四川料理特有の辛さを象徴している代表的な料理と言われれば、麻婆豆腐を挙げる人は多いだろう。赤く辛いとろみを帯びた鍋から上がったばっかりの熱々の豆腐を一心不乱に口の中にかき込むのは、食の中でも素晴らしく何事にも代えがたい自傷的行為である。
この短歌の詠み手は麻婆豆腐を作っている。そうでなければ使われている豆腐が期限切れとは分からない。詠み手は料理をする側の目線で、現在の麻婆豆腐に使われている豆腐の背景や状況を見ているのである。そこでは料理という状態そのものが短歌の裏側に浮かんでいる。
料理は簡単に言ってしまえば、食材を消化できるように細かくし火を通す行為である。そこには一方的に行われる破壊があり、破壊者には一切の酌量もない。破壊者が納得、満足するまで食材の破壊は行われるのである。
そして、豆腐は大豆をすり潰し、火を通し、固められている。既に麻婆豆腐になる前に、そのような一方的な破壊をされているのである。しかし食品としての使命により、その破壊を受け入れたにも関わらず、何らかの理由で期限切れになってしまったのである。
豆腐としての使命を果たせなかったあげく、豆腐はさらに細かく破壊されて、鍋に熱々のとろみと共に地獄のように煮られている。豆腐としてはこれ以上ない理不尽な暴力であろう。これを詠み手は、何らかの罰を受けている、もしくは前世で受けていたのではないかと想像したのではないか。
詠み手は豆腐の前世という輪廻転生を想像している。本格的な宗教観に基づくものではなく、もうすこしカジュアルな想像だろう。そこには因果や道徳という現代日本に広がっている概念があり、当事者の理由を過去の生い立ちに求めるところがある。
しかし豆腐が自ら、期限切れになる、という選択をしたわけではない。豆腐を期限切れにしたのは、販売店か詠み手である。しかし、その人々の非はこの短歌には見られず、豆腐自身にその因果があると考えている。これではあまりにも豆腐が浮かばれない。
豆腐はこのあときちんと詠み手に食べられるのであろう。この場合、期限切れだけれども、終わりよければ全て良し、という結末になるのだろうか。しかし、前世の罪人という咎を科せられた豆腐の名誉の恢復の機会は与えられないだろう。
北海道 長瀬ほのか
テーマ詠のモチーフ『四月一日』
4月1日(しがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から91日目(閏年では92日目)にあたり、年末まであと274日ある。誕生花はカスミソウ、クロッカス。 (以下略)
4月1日-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
会社の先輩である人から詠み手は怒鳴られている。その仕事の納期が迫っているのだろう。詠み手はとにかくこの仕事を終わらそうとしていた。詠み手はその仕事は一切手を抜いているつもりは無かったのだろうけれど、先輩にはそうとは思われていない。だから、最近の仕事内容について叱責されてしまう。
先輩は何かの時に自らの誕生日について詠み手に話していた。その時は、早生まれだとかエイプリルフールだとか、笑いながら話していた。しかし、今は詠み手に怒りをぶつけている。間に合えばいいと思うなよ、確かに納期には間に合わせようとはしていた。しかし、では一体どうすればよかったのか、先輩も、誰も教えてくれない。
このような長期に渡るような社会人経験をしたことが無いので、私の乏しい想像力で鑑賞するのをお許しいただきたい。この短歌には、詠み手が先輩に怒られているという状況しか書かれていない。これだけを読んで、怒鳴られている詠み手に共感するか、先輩の方に共感するかは、読者の立場次第だろう。
間に合う、という時限と、四月一日、という時期の対比がある。これらの言葉にはそのままでは関連性は見つけられないけれど、詠み手はこの二つの言葉に何かしらの関連を見つけている。それは読者には理解できない部分のものであろう。
四月一日はエイプリルフールであり、怒鳴られるという状況により、先輩の存在自体が嘘のように詠み手には感じられてしまったのかもしれない。もしくは、先輩と表記されているが実は詠み手と同い年であり、学年上の早生まれに当たるために、そのような会社での上下関係が出来てしまっていることに何かしらの感情を持っているのかもしれない。
しかし四月一日にどのような解釈をもってしても、詠み手が怒鳴られているという状況は受け入れるほかない。この短歌には詠み手の弁解の余地は先輩から一切与えられていない。そして読者は自然に出てくる先輩の誕生日について、詠み手が書く以上は受け入れるしかない。理不尽な力関係が、先輩、詠み手、そして読者へと向かっているのである。
間に合えばいいと思うなよ、この言葉について考えてみる。確かに納期には間に合っても、仕事の内容が良くなければ評価はされないだろう。しかし、ここには今の仕事の質を上げるための改善策がない。詠み手の能力の低さを断じているだけであり、こうして怒鳴られていても納期が迫っているのには変わりがない。
詠み手が今している仕事への否定だけがあり、そこからは詠み手は逃れられない。前提として仕事はまず間に合わなければならないはずであり、質を上げるために間に合いませんでした、ではさらに評価は悪くなるだろう。
先輩はそのような仕事の前提を覆してまで詠み手を否定している、と詠み手が捉えてもおかしくはない。そのような理不尽さから、詠み手はまず意識だけでも逃れようとした。そこで出てくるのは、四月一日生まれ、というこの状況にはまったくそぐわない情報だったのだろう。状況からは無関係なものを用意して、そこに意識だけを逃げさせているのである。
こういう意識の逃避行動は、おそらく誰しもが行っているのであろう。この短歌では、一見無関係な言葉を並べて関連性を見せようとする方法によって、思考が別の方向に向かうように仕向けられている。読者にも無関係な言葉を関連付ける行為をさせて、状況から今は目を逸らそうという疑似体験をさせているのである。
北海道 岡本雄矢
テーマ詠のモチーフ『祖父母の命日』
命日(めいにち)とは、ある人が死亡した日をいう。忌日(きにち)ともいう。対義語は誕生日。死亡した年月日を歿(没)年月日(ぼつねんがっぴ)という。
通常は、死亡した月を指す祥月と組み合わせて、一周忌以後の当月の命日である祥月命日(しょうつきめいにち)を指すことが多い。祥月にかかわらない月ごとの命日を月命日(つきめいにち)という。
日本の仏教では、年12回の月命日に故人の供養を行い、一定の年数の命日には年忌法要(法事)が営まれる(年忌法要一覧を参照)。仏教に深く帰依したとされる光明皇后は、月命日ごとに法要が行われている[1]。
50回忌以降は、50年毎に行っていたが、近年では、31回忌、33回忌、50回忌のいずれかをもって「弔い上げ」(戒名を過去帳に移し、お骨を土に返す)とするのが一般的になってきた。
命日-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
詠み手はその日、暇で暇で仕方が無かった。家でテレビやネットをしながら過ごしながらも、余りに暇だったのでそのうち家族の誕生日や、ある事件や出来事の日付についてぼんやりと考えていたのだろう。ふと、祖父母の命日がいつだったか思い出そうとした。父方も母方もどちらも冬を迎える前に亡くなっていたはずだった。
その命日を数字を頭の中で眺めているうちに、これは足したらスリーセブンになるんじゃないかと詠み手は考えた。実際に紙に祖父母の命日を書きつけて全て足していくと、まさしくその読みは当たっていた。これは何か運がいいのかもしれないと詠み手は考えた。早速パチンコをしに詠み手はいそいそと家を出ようとしている。
結論から言うと、詠み手はどのみちパチンコに行こうとしていたのである。たまたま祖父母の命日を合計してみたら、スリーセブンになっていたというらしい理由を付けているが、これもよく考えてみると我々が考えている部分と違う考え方をしているのに気づく。
まずスリーセブンであるから、予想される合計の命日は7月77日という事になる。これを祖父母、本来では二人であろうから合計の命日を2で割ると、3.5月38.5日となる。ここから祖父母の命日だけでは、現実の命日と合わなくなってしまう。何とかして帳尻を合わせようと、父方か母方の祖父母の命日まで用意している。
また別の見方として、祖父母の命日を一月一日から数えた日数として計算したのではないかと考えもしたが、それでも777を2で割って388.5となり一年超えてしまう。そもそも命日を365日で表すのが常識から離れてしまっている。
パチンコに行くための理由が詠み手は欲しかったのだ。ギャンブルを経験した人は、何かしらにつけてラッキーナンバーを求めようとしてしまうことが、一度ぐらいはあるだろう。車のナンバープレート、駅の券売機にある4つの管理数字、当たり付き自動販売機の数字、そこにある7という数字の並びをどこかで待ち望んでいるのである。
ギャンブルに深入りした人の目線から見ると、この短歌はまず先に下の句が先に浮かんでいて、それに正当性を持たせるために上の句を無理やり用意しているのである。短歌の意外性に驚かされるよりも、詠み手に対して、どうしようもない人だな、という印象を持ってしまう読者も多いだろう。
それはパチンコに関わらずギャンブルのイメージが、この短歌全体を俗的な雰囲気にしてしまっているからである。しかし、これはパチンコじゃなくてもいい。数字の並びを扱うギャンブルは、競輪競馬競艇オートレース、といった公営ギャンブルにもある。
たまたま詠み手に馴染みがあったのが、街中に溢れているパチンコ店であっただけである。それほどまでに詠み手の日常の中にパチンコが染みついている。のめり込みといったギャンブル依存問題については、短歌鑑賞とは外れるためにここでは省略するけれど、こういう発想になってしまう人が読者の周りにもいると思われる。
人の命日を理由にしてパチンコに行く、他人から見ると理由になっていない状況を、ある種の人に共感できるような短歌という形にしたというのは一つの発見だろう。この発見にどのような感情を持つのかは、ギャンブルにまつわる人々との関係性によって違ってくる。
読者にとってこの短歌がしょうもない人間の性、として笑えるものであるなら、それに越したことはない。ただこのような短歌に対しても、人間の深い闇が見えてしまう人もいるのも確かだろう。この短歌も自分では見られない、他人から見た現実の一端を表していると言えるのかもしれない。
滋賀県 相今涼介
釣り堀(つりぼり)とは、人工的に水面を区画もしくは造成し、魚を放流した上で、客が料金を払ったうえで釣りができるようにした場所のことである。
(中略)
釣った魚に関しては、キャッチ&リリースをしなければならない場所、持ち帰りができる場所、調理をしてもらえる場所(調理料は基本料金に含まれる)、買い取って持ち帰ることができる場所、あるいは買い取らなければならない定めとなっている場所など、営業形態によって様々であり、それに応じて料金も様々である。 (以下略)
釣り堀-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
詠み手は釣り堀の椅子に腰かけて、竿を手に持って水面に糸を垂らしている。釣り堀には鮒がいるのか、ただ垂れている糸と浮きを眺めている。時折、竿の先端が小刻みにしなる。魚が餌を食っているのだろう、詠み手はその小刻みな振動に合わせて、竿を引く。途端に激しい引きが竿を伝わってくる。竿を手繰り、釣り糸を手繰り寄せて、魚を釣り上げる。
詠み手は今日だけではなく、いつもその釣り堀に出かけている。日が変われば釣り堀も同じようでいて違う。竿を垂らせばすぐ釣れる日もあれば、まったく引っかからない日もある。詠み手が誕生日だった時も、何もない普通の日にも、釣り堀の魚は詠み手の竿に引っかかる。詠み手はそうして、いろいろな日の魚を釣っていくのだろう。
詠み手が釣り堀で日付を釣っている。この日付とは一体なんであるのか、解釈は様々であろう。日付は何かの比喩表現であり、それが釣り堀に行くといく行為そのものを表しているのかもしれない。もしくは、漢字の字面が似ているからという理由で、日付、魚付、という意味で鮒の置き換えなのかもしれない。下の句の想像に繋がっている言葉なので、どのように読むかは大切にしたい部分である。
下の句は、誕生日と普通の日が対比されている。日付がテーマの短歌なので、誕生日は作者にとってはすぐに浮かぶモチーフなのかもしれない。誕生日は、誰にとっても固有に存在する日付であり、その日を迎えると一つ歳を取るという大事な日である。ここには時間の積み重ねを意識させる要素がある。
釣り堀というのは場所にもよるけれど、時間の流れが緩やかになっている。そこは仕事や日常の忙しい時間から外れており、殆どが魚が釣り針に引っかかるのを待つという時間に割かれている。上の句と下の句では、時間の捉え方が流れか積み重ねかで違っている。
そう考えると、上の句も釣り堀とだけしか書かれていないけれど、そこには日常という速い時間の流れが前提として用意されていることが分かる。詠み手はそれぞれの時間に身を置きながら、日付という、概念について考えているのかもしれない。
詠み手は釣り堀で日付を待っている。それは誕生日という特別な日もあれば、普通の日もある。釣り堀のように遅く流れる時間の中では、全ての日が特別な日とは思えないだろう。しかし、それぞれの日は確かに何かしらの大切な日であり、それは実際に釣り上げてみなければ分からない。
短歌は、とか、という言葉で終わっている。誕生日や普通の日以外に、ここに並べられる日付は存在するのだろうか。それは読者によって違ってくるのだろう。一体どのような日付が釣りあがるのだろうか。
誰にも存在する誰のものでもない特別な日付を、作者は読者に見つけさせようとしている。
次は『野性歌壇 短歌鑑賞 2020年 2月号 特選 3首』に続きます。