野性歌壇 短歌鑑賞 2020年 1月号 加藤千恵 選 佳作 10首
投稿歌人 八号坂唯一です。名前だけでも覚えて帰ってください。
今回は、加藤千恵 選佳作10首を鑑賞したいと思います。全投稿作から選者が選を決める投稿歌壇ではよくあることですが、今月は山田航 選と重複している作がありますので正確には9首の鑑賞をします。
どうして有名短歌雑誌ではなく「野性歌壇」だけに絞って投稿しているのかという話ですが、他の媒体に比べて名前が掲載されるのが比較的簡単だからです。理由として不純だ思われる方もいると思いますが、案外、名前が掲載されること自体に喜びを感じている投稿歌人ばっかりだと思います。短歌を作ろう、投稿を始めようとする動機として悪くないと思います。
はがきで短歌を送る時代ならいざ知らず、今は投稿フォームで1日5作まで送れるんですから、稚拙だろうとなんだろうと形になったものが思いついたらどんどん送ればいいのです。これを読んでいる皆さんもやりましょう。
個人的には「野性歌壇」が投稿歌人たちから注目されるコンテンツにまで成長する。それによって野性時代の売り上げが上昇する。新人作家の連載が多くなる、かつ著名な作家が連載されるようになる。連載されている作家の単行本の売り上げが上昇するという前向きな循環が生まれて欲しいのですが、捕らぬ狸の皮算用、目論見は甘い。
お手元に「小説野性時代2020年1月号」をご用意ください。一緒に見ながら短歌の読み方について考えていきましょう。
テーマ詠「絶滅した(もしくはしそうな)生き物」
2020年1月号 加藤千恵 選 佳作 10首
大阪府 たろりずむ
テーマ詠より使われたモチーフ『100年で死んでしまう僕ら』
詠み手が「僕ら」や「私」という時は、読み手もその中に含んでしまおうとする意図があり、共感や共同が持つ暴力性が見て取ることができます。言葉自体は人間と独立していますから、一度読めてしまえば文章の好き嫌い善悪など問わず、誰の頭の中にもその概念が生まれてしまう。それは誰一人逃れられない。
何度も繰り返せばその概念に応じた人格に変容するので、これを利用した実験や活動が人間の歴史の中で行われてきました。「洗脳」という極端な言葉に言い換えられた時もありましたが、日常においても概念を言語化することで人間は行動が制限され、人の持つ力を管理しやすくなります。
そのような管理や制限が与えられた結果、「僕ら」は簡単に滅んでしまうという短歌として読めるわけですが、実際のところ、そんな簡単な話ではないのは読み手が現実を生きていれば分かります。あまりにも「僕ら」は多すぎる。
このモチーフである「僕ら」がヒトを示しているのかは分かりませんが、ヒトでなかったとしても「僕ら」は読み手に対して「絶滅できてしまう」存在だという、刹那的な生命への共感を与えようとしています。つまり作者が共感させようとする部分は変わっていないのです。
「百年間じっとしている」というのは、一読して現実世界と矛盾しています。「じっとしている」が本当に何もしていないのであれば水すら飲まないわけですから、実行すれば5日で絶滅できます。絶滅するまでの時間が矛盾しているのです。ただ生きているがある行動はしないから絶滅してしまうと導き出せるわけです。
無粋な想像力を行使すれば、これは生殖活動のこと、セックスであり、人工授精であり、そこに至るまでに付随する人々の他者に対する営みとなります。現代においてどのような生殖活動も無しに、種が繁殖していくのはとても難しい。しかし、それらの言葉をそのまま使用したのであれば、読み手の想像力はその生殖活動が持つ暴力性に向いてしまい、意図している「絶滅できてしまう僕ら」への共感が弱まってしまいます。
どんな層にも受け入れられる言葉に言い換えるのは誰にでも共感できると共に、本当に伝えたい部分の言葉が持つ強さをはっきりと意識させるためなのです。
ヒトが「じっとしている」なんて現実でできるわけがない。けれど、子供を残そうとする人々が抱える様々な感情、および、他者に対する行動が失われれば絶滅してしまう。作者がそのような具体的な設定をもってこの短歌を作っているかは分かりませんが、そのような悲観的な想像のタネを「じっとしている」という抽象的な行動に変化させて、どの読み手の想像力にも「絶滅できてしまう」という生物が持つ命の儚さが届くようにしています。
気になった点
先の文意と逆になりますが、「じっとしている」というあまりにも抽象的な部分を、より具体的に「セックス」や「性行為」と言い換えてみると、短歌の方向性がより定まるような気がします。ここら辺は作者の伝えたい部分がどのように設定されているのかわからないので、難しいところです。
私は「セックス」という言葉がしっくりきていますが、マイルドに「愛」や「人に触れる」という感情や行動を表す言葉に置き換えてもいい。他者に対する感情や行動が無ければ「僕ら」は絶滅してしまう、という伝えたい部分は揺らがないでしょう。
長野県 雅文
テーマ詠より使われたモチーフ『ステラーカイギュウ』
ステラーカイギュウ(Hydrodamalis gigas)は、海牛目ジュゴン科ステラーカイギュウ属に分類される哺乳類。絶滅種。
(中略)
ステラーカイギュウには、仲間が殺されると、それを助けようとするように集まってくる習性があった。特に、メスが傷つけられたり殺されたりすると、オスが何頭も寄ってきて取り囲み、突き刺さった銛やからみついたロープをはずそうとした。そのような習性も、ハンターたちに利用されることになった。 (以下略)
ステラーカイギュウ - フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヒトがその知性によって新たな能力を獲得し、地球という環境自体を観測し制圧していった時代がありました。その過程で人間の手により絶滅した生物が多くいます。ドードー(1681年絶滅)もリョコウバト(1914年絶滅)もそのような時代に絶滅してしまった生物たちです。
現在においてもヒトが地球という環境を完全に観測し制圧したとは言えず、ヒトの活動が続く限り絶滅してしまう生物はこれからも出てくることでしょう。それをどうやって抑えていくかはヒトが考えるしかありません。
私が「ステラーカイギュウ」を知ったのは、歌人である仁尾智 氏と佐々木あらら 氏によるポッドキャスト『僕たちだけがおもしろい』で、ベーリング海の名前の由来となった航海士ヴィトゥス・ベーリングのアメリカ大陸探検のあらすじと顛末が語られる中でふと出てきた生物でした。それまでは全く馴染みのない生物であり、人を怖がらないために絶滅してしまったのかという印象だけが残っていました。
私も「ステラーカイギュウ」の短歌を作ろうと思ったはずですが、残されたメモを調べるにその形跡はありませんでした。8文字という文字数の難しさもあったのかもしれませんし、人を怖がらない性質をどのように短歌に取り扱っていいのか分からなかったのかもしれません。
この短歌では「集まりて」が読み手に引っかかりを印象付ける言葉になっています。「ステラーカイギュウ」という見慣れない生物をネットなり書籍で調べた人であれば、この短歌が作られるきっかけとなったテーマの「絶滅」から分かるように、この「集まりて」は元から群れを成していたという説明ではないのです。
人間の行為によって殺されようとしている一匹乃至数匹のステラ―カイギュウを助けようとして「大勢のステラーカイギュウ」が集まってくる。おそらく単に身動きが取れなくなった個体を群れ全体で助けようとしているだけなのです。そこに人の手による原因があるとは、助けようとするステラーカイギュウたちは思っていないはずです。
しかし、その群れの中でただ一匹の「ステラーカイギュウ」は「こちら」を見ています。「こちら」とはどこをさしているのでしょう。短歌から察するに方向や場所を示しているのではなく、私たちをさしているようにみえます。では、この私たちとは人の手による狩りを傍観している読み手に対してでしょうか。それとも「ステラーカイギュウ」の狩りをしている詠み手に対してでしょうか。
ある残酷な行為の傍観者か当事者であるか、現実ではその立場に置かれてしまうとその状況でしか言葉を発せなくなりますが、その残酷な行為が想像できる立場であればどちらの側にも立てます。読み手であるあなたはどちらの立場として読みますか。そして傍観者、当事者、どちらの方が罪が軽いと思いますか。
作者としては、どちらであっても等しく罪があると考えているでしょう。どれだけ時代が過ぎようとも人が「ステラーカイギュウ」を絶滅させたという事実は変わりません。「ステラーカイギュウ」を狩っていた当事者はもうこの世にはいませんし、償いたくても「ステラーカイギュウ」は絶滅してもういないのです。
しかし、傍観者である私たちはこれから絶滅しそうな生物に対してまだ何かが出来るかもしれません。集団で生きている私たちには関係各位の調整などがあり難しい問題ではありますが、各々が考え続けることと行動することはできます。
それらの未来の人々の考えや行動を、時代を越えてこの短歌のモチーフに生まれ変わった「ステラーカイギュウ」は見ているのかもしれません。
気になった点
「集まりて」や「見たり」といった文語表現でしょうか。現代の短歌として普通に口語を使ってもいいと思います。文章をどう表現するかは、口語よりも使う人の主張が強く置かれる部分です。作者の意図があって文語を使って短歌を作るのであれば、読み手はそれに従って文語の用法を使って読んでいくしかないのです。
文語だけで短歌を作る人はさておくとして、文語と口語両方の短歌を作る人に対しては、どうしてこの短歌には文語を使ったのですか、ここで文語を使う事に対して読み手にどのような意図を伝えたいのですか、という素朴な疑問が湧いてしまいます。
神奈川県 中森さおり
テーマ詠より使われたモチーフ『新生児』
(略)
母子保健法は、出生からの経過期間によって、「赤ちゃん」を次のように定義する。
新生児:出生後28日未満の乳児
(中略)
国際連合ミレニアム開発目標では、1990年から2015年までに乳幼児死亡率を3分の2減少させる(Target 4.A)とした。結果として1000人あたり90から43まで減少し、この目標は達成されている[3]。(以下略)
赤ちゃん-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ガラスで隔てられている「新生児」がいるところは新生児室でしょうか。それともNICUの保育器の中でしょうか。「新生児」を見ている詠み手はその赤ちゃんの両親か、看護師でしょうか。それとも、まったくの赤の他人でしょうか。この短歌が伝えようとしている状況は「新生児」と詠み手の組み合わせによってさまざまに解釈できそうです。
この「絶滅のおそれ」という言葉が持つ印象が強いため、「新生児」の言葉が持つ印象と噛み合っていないと思われます。「絶滅」には種や命が失われようとしている暗い未来があるのに対して、「新生児」はこれからさらに輝きを増していくような明るい未来があります。
しかし、この短歌は「新生児」が新生児室のベッド、もしくはNICUの保育器の中で寝ている無防備な姿が、小さな命が常に死と隣り合わせの状態に見える、その比喩として「絶滅のおそれ」が使われています。
本来であればそこまで強い印象を与えずとも、新生児の命は常に危険にさらされているのは誰しもが分かっているので、より分かりやすい比喩を用いればこの言葉同士の噛み合わなさを解消することもできるでしょう。
ただ、今月の野性歌壇のテーマが「絶滅した(もしくはしそうな)生き物」ですから、そのテーマを外してしまうわけにはいきません。多くの投稿歌人がテーマとモチーフの不一致を結び付けるために、それらを繋げる魔法のように上手い表現や言葉の組み合わせを日々考え続けているのです。
「絶滅」という「新生児」への比喩が読み手に伝わりやすくするために、ここでは生物たちが抱えている絶滅や絶滅危惧種という印象を借りてきています。しかし、そのまま動物や生物といった言葉を使ってしまうと、単に新生児を動物と表現しているように見えてしまい、読み手の想像が広がりすぎてしまいます。この短歌で伝えたいのは「新生児」が常に死と隣り合わせにある状況なのです。
「ガラス越しに見る」いきものと言われたとき、多くの読み手が思い浮かぶのは新生児よりも動物園や水族館にいる生物だと思います。様々な生物が飼育員の管理下に置かれて生きている動物園や水族館と、多くの新生児が看護師の管理下に置かれて生きている新生児室が似ていると詠み手は思ったのかもしれません。
この短歌の魔法のような部分は「ガラス越しに見る」でしょう。動物園や水族館の生物たちが置かれている大きな環境を、読み手が動物を「ガラス越しに見る」という構造に単純化することで、詠み手が見ている新生児室の環境と類似させます。
動物園や水族館の特殊な環境だけを読み手の想像の土台にさせることで、その想像の先にいる動物たちが抱えている「絶滅」というイメージと、そこにいる死と隣り合わせの「新生児」を結びつけるのが可能になるのです。
また「ガラス越しに見る」にはそのような言葉の結びつきの他に、見ている対象との距離感も生まれています。隔てているものの存在によりどこか客観的に対象を見ている印象があります。この短歌に出てくる「いきもの」や「新生児」には客観的な視線があり、「絶滅」を自らの切実な物として捉えていない。もし自らと関係がある子であれば、「新生児」といった一般名称は使わないでしょう。
それらを踏まえたうえで、この詠み手と「新生児」の関係は一体どのようなものなのでしょうか。どうしてそこにいるのでしょうか。この短歌にはっきりと書かれていない以上、それは作者以外にはわからないのです。
気になった点
31文字に収まっていますが、57577として指折りながら読むと、2句目から4句目まで句跨りになっています。読み方は自由なのでこちらで意識して調節はできますが、短歌に慣れていない人が57577の区切ったリズムで読むときにはどこか座りの悪さを感じます。
おそらく「として」という言葉があることが短歌の全体のリズムを歪めている原因だと思うのですが、それを直す以上に「として」が持っている詠み手の客観さを外すのは難しかったのだろうなと思います。
東京都 西生ゆかり
野性歌壇 短歌鑑賞 2020年 1月号 山田航 選 佳作 10首 にて 鑑賞しています。
熊本県 書房
テーマ詠より使われたモチーフ『アノマロカリス』
アノマロカリス(Anomalocaris)は、約5億2,500万- 5億500万年前、古生代カンブリア紀の海に棲息していた捕食性動物である。アノマロカリス類の模式属で、突出して著名な1属である。
(中略)
本属の多くの種は、当時の頂点捕食者であったと考えられている。発達した複眼、棘を備わった前部付属肢、鰭に繋ぐ発達な筋組織、流線型の体型や消化腺などの特徴は、能動的な捕食を行っていたことを示す[3]。捕食の際は、頭部先端の前部付属肢で捕らえた獲物を逃がさずに、口の方向に導いていたと考えられている。 (以下略)
アノマロカリス-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この短歌は1首の中で質問されて答える形を取っています。このような形態は短歌の一つの手法として使われています。文字数が31文字とそれなりに多いので、前後で文章を2つに分けやすいのだと思います。
こうしてみると短歌は大喜利みたいだなという印象を受けます。投稿短歌自体、お題に対して短歌で答える構造になっているので、大喜利とは近しい部分があるのかもしれません。
詠み手が誰かに質問されています。それを復唱する形で先に質問文があり、後にその答えの文章が返されるのですが、この詠み手はお金持ちになったら、何かを「刺し盛り」で食べてみたいそうです。無尽蔵に使えるお金を食べたことがないものに充てるのは、グルマンの考え方でしょうか。
もしくは「刺し盛りにする」と書かれているので、「アノマロカリス」を自らの手で「刺し盛りに」したいのかもしれません。その場合は、解剖学的好奇心の強い料理人だと言えるでしょう。
「刺し盛り」は、盛り皿に大根の千切りや大葉など敷き、その上に刺身を綺麗に並べて客人に供する、いわゆる和食の部類に含まれる食べ物です。そして刺身にされる「アノマロカリス」は、ネットで調べてみると大雑把に言ってエビのような外見をしている古代生物でした。
そのように考えると、この詠み手は「アノマロカリス」を伊勢海老のような大型海老の類と考えているらしい。海老の刺し盛りには尾頭付きで提供されるものがあり、おそらくはこの詠み手も尾頭付きの「アノマロカリス」の刺し盛りを想像しているのでしょう。それはとても活きのいい食べ物にみえる。
絶滅している生物を食べるためだけに復活させるというのは、人間の傲慢さが表れているようです。しかし、生物は生きている他の生物や植物を捕食して生きていくしかなく、誰しもその食べること自体が持つ残酷さから逃れることはできません。食べるという欲求に関しては、いまそれが生きていようが絶滅していようが関係がないのです。
この詠み手は「アノマロカリス」が食べられるようになるには、莫大なお金が必要だと本当に思っているのでしょうか。「アノマロカリス」は古代に絶滅してしまったいきものですから、今の科学技術では復活できません。現代ではどれだけのお金を費やそうとも実現できない物事があります。
この短歌には時間を遡るという不可能さについても書かれています。お金持ちには、もしかしたら将来なれるかもしれない。しかし古代に戻って「アノマロカリス」を一匹でも捕ってくることはできないのです。ここでは莫大なお金よりも時間の方が途方もないほどの高い価値があります。
それを踏まえた上で、人間はどのように憧れを設定するかをこの短歌から見出せます。この短歌で答えとなった食べたいものであれば、トリュフフォアグラキャビアと言った三大珍味などの高級食材を腹いっぱい食べることも現実的な憧れとして設定できるはずです。しかし、詠み手はここで時間の概念を取り入れた憧れを設定しました。
どうみても不可能としか思えない憧れを、この質問者や私たちはどのように受け入れればいいのでしょうか。いや、そのような受け入れようという姿勢自体が、詠み手を見定めようとしている意識があります。現実的な憧れであれば、誰でも現実の様々な金額から概算を立てられるでしょう。しかし、時間という不可逆なものに対しては、各自の中による想像力や価値観でしか判断できません。
この単純な問いかけによる夢想的な答えには、時間という概念をどのように考えているかという我々への問いかけがされています。できもしないことと笑ってもいいし、ロマンティックだと感動してもいいでしょう。時間は誰にでも平等に見えるはずなのに、先に生まれたもの、後に生まれたものと、生物に対して全く平等ではなく進んでいきます。既に絶滅してしまった多くの生物の上に私たちは存在しています。
質問者は、そして読み手たちは、この遡れない時間に対してどのような感想をもったのでしょうか。
気になった点
この短歌の形態が問いと答えでなくてもいいような気がします。一つの文章にして自らの憧れを一方的に宣言するという形でも、概ね意味は通ります。
しかしそれだと答えがそのまま我々への問いかけになる構造が分かりにくくなりそうです。この短歌で誰もが注目し評価するのは答えの部分であり、その文章が注目されなければ我々への問いかけも効いてこないのです。
あと「刺し盛り」にしたアノマロカリスはどうするつもりなのでしょうか。この後スタッフが美味しく頂いたのでしょうか。
福岡県 原田冬
テーマ詠より使われたモチーフ『マンモス』
マンモス(英語: mammoth)は哺乳綱長鼻目ゾウ科マンモス属 (Mammuthus) に属する種の総称である。現在は全種が絶滅している。
(中略)
2012年5月9日、『英国王立協会紀要』に史上最小のマンモス(肩高120センチメートル、体重310キログラム)がクレタ島で350万年前まで生息していたという研究が発表された[3]。(以下略)
マンモス-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
まず一読して分からないところが、この詠み手がどのような存在かという部分でしょう。読み手には分からない「マンモス」の寝言を聞いて、「かわいい」と感情を表すことができ、「にんげん」の存在を知っています。「もう一度滅びる」という言葉からも「マンモス」と「にんげん」の関係性も知っているみたいです。
詠み手が「マンモス」である可能性もありますが、そうなると自分たちが「もう一度滅びるところ」を「にんげん」に見てほしいという文意になり、そこには「にんげん」に対する純粋な憎しみとも違う特別な感情が含まれていそうです。
ここで書かれている「にんげん」というのは、いつの時代の人間なのでしょうか。読み手を「にんげん」と言っているのでしょうか。それでは、「マンモス」が「もう一度滅びる」時代との整合性がありません。では昔の人類を「にんげん」と言っているのでしょうか。
この短歌の時代設定が不明確なのは、その「もう一度」という言葉があるからです。これにより「マンモス」の滅亡だけであれば文献から分かるけれど、再びの滅亡についてはどの時代を取ればいいのかが分からない。いつの時代に「マンモス」は復活したのでしょうか。
ここで言う「もう一度滅びる」存在というのは「マンモス」ではないかもしれません。では「マンモス」でもなく「にんげん」でもないとしたら、詠み手自身をさしているのでしょうか。
この詠み手は一度この地を追われ、またこの地に復活している。しかし、また何らかの理由で滅びなければならない。それがどのような生物や存在、時空を超越した何かであれ、やはり「にんげん」と関係を持っている。私たちと言葉をやり取りできる存在であるのは間違いなさそうです。いや、超越したこの存在こそが「マンモス」を滅ぼして、復活させ、また「にんげん」の目の前で「もう一度」滅ぼそうとしているのかもしれません。
創作では人間以上の能力を持つ存在に対して、人間らしさを極端に歪めたような邪悪なものや無垢なものとして表現することがあります。対峙する人間と相容れない価値観を持たせて、人間それぞれが持つ価値観や行動を浮き彫りにし、物語を進めていく原動力にしていきます。
この短歌を読み直してみると、この文章には幼さが残っています。詠み手自身が幼いのか、はたまたそのように振舞っているのかは分かりませんが、「マンモスの寝言」に「かわいい」と、人間を「にんげん」と形容してしまえる感覚はあります。
しかし、そこから引き出される次の言葉は「滅びる」という残酷な行為、もしくは傍観による無関心さです。出来事をありのままに受け入れるような無垢な部分があるといえるかもしれません。それを目撃させられる「にんげん」には止められようもなく、そして止めさせるつもりはありません。最後の「見てて」には幼さがありつつも、相手に有無を言わさない凄みがあります。
この存在は一体何なのでしょうか。神様や創造主や地球外生命体など、想像力を用いればどのようにでも表せそうです。どのようにこの存在を想像しようとも、それには「にんげん」とは相容れない価値観があり、読み手もこの短歌に隠されている共感できない隔たりを感じてしまうのです。
ただ、この存在は私たち人間の想像力から生まれています。私たちの持つ価値観を極端にした存在である以上は、絶対に理解できない価値観であるともいえません。その価値観に根ざしている論理や感情が理解できれば、この短歌も共感できるでしょう。
私たちは聞いたこともない「マンモスの寝言」を「かわいい」と思い、「もう一度滅びる」存在たちに何かしらの美を感じ取ってしまうことに、何のためらいも無いのです。これは無垢でしょうか、それとも邪悪なのでしょうか。
気になった点
この短歌では滅びた生物をあげればいいので、別にモチーフは「マンモス」でなくてもいいと思います。テーマ詠や題詠の難しい所として、テーマが決まっているから短歌もそうならざるを得ないという、一種の枠にはまってしまいがちなところがあります。
絶滅する生物は入れなければならないけど、伝えたい事にほとんど文字数が割かれてしまっている。そこに残りの文字数で収まる生物を置きにいってしまうのが、我々短歌を作る上で陥りがちな弱みだと思います。
あまり知られていないステラーカイギュウでもいいのですから、もっとテーマにおける解釈の幅を広くとっても良かったのかもしれない。
群馬県 サツキニカ
テーマ詠より使われたモチーフ『マンモス、ニホンオオカミ、人間』
ニホンオオカミ(日本狼、Japanese wolf、学名 : Canis lupus hodophilax)は、日本の本州、四国、九州に生息していたオオカミの1亜種。あるいはCanis属のhodophilax種[1]。20世紀初頭に絶滅したというのが定説である。
(中略)
なお、1892年の6月まで上野動物園でニホンオオカミを飼育していたという記録があるが写真は残されていない。当時は、その後10年ほどで絶滅するとは考えられていなかった。
ニホンオオカミ ー フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『手のひらを太陽に』という歌があります。ぼくらはみんないきている、から始まるやなせたかし作詞による1961年に作られた歌です。その歌のサビにあたる部分で、みみずだっておけらだってあめんぼだって、と歌われています。2番では、とんぼだってかえるだってみつばちだって、となっていて子供の目線で身近にいる生物を歌詞に取り上げています。
自然の生物たちと私たちは同じように心臓を鼓動させ血を通わせて生きている、いま生きていること自体が喜びであるからその生を謳歌して生きようという前向きな歌ですが、もともとはやなせたかし本人が日々の生活で追い込まれていた自分を励ますために作られた歌詞なのだそうです。
歌を口ずさむと、いつしかその歌詞や音楽の感情に染まってしまう。青春時代に聞いていた曲を改めて聞くと、その頃の思い出がふと浮かんであの感情が蘇ってくる。などなど、歌が持つ人間の感情に働きかける力というのは、知識としては分かっていなくとも、経験としては理解できる人もいると思います。
この短歌には『手のひらを太陽に』と共通点があり、それは他の生物と自分が同じであるとわかる部分です。現代の生活であれば、人間は人間の社会で生活しその中で関係を育むのが自然で、他の生物に対して同じ社会にいると見なしません。愛玩動物を飼っていたとしても、その種のみを自らの社会に含めるだけで、生物全体には関心はないのです。自然保護活動というのは、人間の社会に全ての自然(および、ある種の生物)を含めさせようと意識的に行っている活動と言えます。
わざわざ歌にしてわかる必要もなく、私たちはその他の生物を含めた自然の中に生きています。他の生物との違いは自然への介入が出来るぐらいで、生物が抱えている死からは逃れられようもありません。どうして歌や短歌として口ずさめるようにし、あえてもう一度わかった上で、自らの感情を揺さぶろうとするのか。どうして自らを揺さぶろうとするために他の生物たちと同じ社会に行こうとするのか。
それは詠み手の置かれている状況が他の人間とは違うことに引け目を感じてしまったからです。他の人間たちとは違ってしまったと思っている以上、他の人間では代償できません。自らの状態に対する目線を変える必要に迫られているのです。簡単に生物に寄り添おうとしているという私の見方には、詠み手の視野を一方的に狭めているという意見もあると思います。
ただ、この代償としての生物が詠み手にとって崇高であると思っていようが、畜生であると思っていようが、もう他の人間では埋められない感情が生まれているのは確かです。埋められない感情を抱えたまま、生きていかなければならないのです。
「マンモス」も「ニホンオオカミ」も絶滅してしまいました。もう人間の目の前に現れることは無いでしょう。しかし、詠み手はそれらの絶滅した生物と同じであるとわかってしまった。どんな生物も死んで「骨になって」しまうことから逃れられない。そのような、ごく自然な現象をあえて言葉にしなければならないほどの、人間社会からの引け目を感じてしまったのです。
「マンモス」も「ニホンオオカミ」も既に死んでいなくなった自然にいる私、私も周りの「人間」たちもいつか死んでしまう、悲しいけれどそれが生きているということなのだ。だから今日は、私だけはそれらの「骨になって」しまった生物たちのことを思いながら「ねむろう」。
短歌の作者と文章の詠み手は違うと考えているので、作者がそのような考えに基づいて作歌したかは推し量ることはできません。どのような状況に置かれていても生きていくことを明るく表現することもできるし、暗く表現しようとすることもできるという短歌の一例だと思います。
ここまで書きましたが、単に「マンモス」と「ニホンオオカミ」が絶滅するときと「人間」が滅亡するときを同一時間に置いて、それを一緒に「ねむろう」と表現する、SF的な大きな視点の短歌として読んだ方がわかりやすいと思いました。この大きな視点は一体何なのかという問題が出てきますけれど。
気になった点
こちらも文字数に合わせて絶滅した生物を置きにいった感じはします。しかし、『手のひらを太陽に』のように生物を羅列することで、「人間」も生物の中に含ませやすくするには、やはり最低でも2種類の動物は必要だと思います。
私たちが「骨になって」眠る場所とはどこだろう。それぞれ骨や化石がある地層が違うだろうから地中全体として表現してるとは思うけれど、地中全体でそのように眠っているのだと考えると、私たちの自然はとても暗い世界のように見える。
静岡県 青島早希
テーマ詠より使われたモチーフ『ステラーカイギュウ』
詠み手が世界のルールを決めてしまう短歌です。この短歌のような手法では詠み手が世の中に蔓延する不確かな価値について、はっきり具体的に言い切ってしまう気持ちよさや、決めつけられてしまう恐ろしさがあります。詠み手と読み手の価値観の差が浮き彫りになり、その差自体が表現になってしまうのです。
「優しさの基準」と言われて思い浮かぶのは、ある人物が誰かや物事に対して優しいと感じさせる態度や振る舞いの積極さや消極さでしょうか。この短歌での優しいの有無は読み手が決めるのでしょうか。読み手はこの「優しさの基準」にいま初めて触れたので、それを運用するのはこの短歌を理解しなければ難しそうです。
では、詠み手が「優しさの基準」を運用する場合、誰に対してこの判断が行われるのでしょうか。読み手を含めた「他人」に対してであり、そこには計られる人の許諾はありません。この短歌の詠み手には、貴方やその他大勢が優しい人であるかを、この一文で決めつけてしまうという乱暴な部分があります。本人が他人を思う優しさからは遠く離れているように見えるのも、この短歌の妙味と言えるでしょう。
「優しさの基準」ですが一回で試験者の優しさの度量が分かるかというと、それは違います。この文章を理解しようとする行為に、優しい人であるかのふるいが用意されています。
まず絶滅した動物に関心があるかどうか。「ステラーカイギュウ」と言われて形や生態を思い浮かべる人は少ないです。それについて最低限ネットで調べようと思える関心があるかを詠み手から見られています。その対象に関心が無ければ優しさ自体使えない。
次に「絶滅理由」を理解できるかです。「ステラーカイギュウ」は人間に対して警戒がありませんでした。そして、人々に傷つけられて弱っているメスにはオスの群れが助けようとする習性がありました。昔の人々はその習性を利用して、一度に多くの「ステラーカイギュウ」の命を仕留めたといいます。
あまりにも簡単かつ大量に獲れてしまうのですが、その巨体により船で運ぶことが出来ず、自然と岸に打ち上げられるまで余分に多く獲物を仕留めていきました。これが絶滅を加速させる要因にもなり、「ステラーカイギュウ」が発見されてから、わずか27年で地球上から姿を消してしまいました。
昔の人に対して、あまりにも「ステラーカイギュウ」たちに対して残酷すぎる行為だと腹を立てるのも理解できます。しかし、その極寒の地で生きていくためにはその行為をしなければならなかったのだろうとも理解できます。ただ、どのように解釈しようとも、絶滅理由の原因が人間が行ったためによるものという事実は変わりません。
他人の振る舞いに対して関心があるかどうか。現代では「ステラーカイギュウ」を絶滅させた直接の人々はいません。しかし、この事実を自らの問題として引き受け想像できるかが見られています。似たような問題は現実でも起きています。他人が行った事実を理解し受け入れ、次の問題に対してどのように優しさを使えるのか、詠み手はここを見ています。
最後に「泣けるか」という部分、単純に感情が発露できているかと読めそうですが、おそらく多くの読み手は深くは意識していない部分かもしれません。この「泣けるか」とは、いったい何に対して泣いているのでしょうか。
私がやや面倒に「ステラーカイギュウの絶滅理由」について書いていったのは、泣こうと思えばどちらの立場でも泣けるようになっているからです。仲間を助けようとして犠牲になる「ステラ―カイギュウ」たち、極寒の北海で稼ぐために必死になって仕留めていった漁師たち、どちらの側でも理解できますし共感もできます。
おそらく多くの読み手が「ステラーカイギュウ」の側に立ち、「絶滅理由」を自らの問題として受け止めて泣いているのが優しいのだと考えていると思います。私もそのように考えています。おそらく作者もそうでしょう。
しかし泣くための具体的な部分をぼかしているので、この関係性のどちらに立つかによってこのように最後の部分で解釈が分かれてしまうのです。自分が生きるために動物を殺さなければならなかったのだと泣いてしまう人は優しくないのでしょうか。
終わりの方で短歌を素直に読まず、屁理屈で鑑賞しているのは分かっています。しかし、詠み手から与えられたルールや決めつけを理解し、その穴を見つけて新しい解釈を見つけようとするのもありだと思います。残酷な側の方に立って見えるものは、全て受け入れられない解釈なのでしょうか。
その決めつけの穴から自分の短歌をより良くする見方が見つかるのであれば、たまには詠み手や作者の意図とは離れて考えてみるもの面白いと思います。
気になった点
「優しさの基準」の「基準」がどうしても引っかかります。「基準」はそれが平均であったり、標準であったりする状態のものに対して使われることが殆どです。目指すべき水準に対しても使われたりしますが、それを示した途端に普遍なものになってしまいます。
つまり「絶滅理由で泣ける」ような「優しさ」は実は当たり前のでものある詠み手は暗に示しているのかもしれません。そう考えると、ますます乱暴な短歌であり、詠み手の「優しさ」はさらに遠ざかっていくように感じられます。
北海道 細川街灯
テーマ詠より使われたモチーフ『うっかりと絶滅する僕ら』
氷河(ひょうが、英: glacier)は、山地では重力、平坦な大陸では氷の重さによる圧力によって塑性流動する、巨大な氷の塊である。
(中略)
氷河の中で最も大規模なものは氷床である。氷床は地表面のほぼ全てを覆い隠すほどの規模であるが、現在では南極大陸とグリーンランドだけに存在する。これらの地域に氷床が存在するために、仮にグリーンランドの氷床が融解した場合には6m、南極のそれが融解すると65m、海面が上昇するとされているほどの、膨大な水分が氷として蓄えられている。 (以下略)
氷河-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
氷河は毎年、体積を減らしている。これは様々な資料に基づく確かな事実だ。「氷河が消える」とまではいかないが、氷河が徐々に後退しているのは計測で明らかになっている。地球温暖化が主な原因とされているが、その原因を取り除くには政治や経済が絡んでくるので、完全に地球温暖化を解決するのは困難である。
この短歌を読みながら私が中学生だった頃、理科の教科担任だった初老の男性教諭が地球温暖化についての雑感を述べていたのを思い出した。黒板に簡単なグラフを描きながら、地球というのは大きく冷え込む時期と暖かくなる時期を数万年ごとに繰り返しているんだよ、と言い、今は冷え込む時期なんだけどと下がる線を一度引いてからそれを手で消した。そして、でも今はちょっとだけ平均気温が上昇しているんだと、消した線の上にくるんと上向きの線を書き足した。
このちょっとだけ上昇しているのが地球が暖かくなる時期だったらいいんだけど、冷え込む時期の途中なのに何故か上昇し始めているから問題なんだよね。もしこの上昇が抑えられるのであれば地球の気温は再び下降する。けど、抑えられないのであれば後は上昇し続けるしかなくなるんだよね。と、その猫のしっぽのように小さく上に反り返った線を見ながら言っていた。
昔の話なので細部は覚えていないが、その先生の声色とそのグラフは印象に残っている。そのように地球温暖化は昔から言われ続けているのに、解決の目途は現在でも立っていない。
「氷河が消える」という事実と、それに起因する原因は分かっている。しかし、どうやらそれは解決できそうにないだろうという詠み手の諦めに似た実感がこの短歌に現れている。
ある日詠み手は、氷河が「またひとつ」消えてしまったのを、何処かのメディアで知った。そういう記事が目に入ってしまうぐらいには地球温暖化に関心がある。
そのような記事は昔から変わらずに出ているのに、どうして世界は解決に向けて一致団結しようとしないのかと詠み手は思った。おそらくその理由も目にしているのだろう。そうしてお互いの利害を言い合っているうちに氷河は無くなり、地球温暖化によって先に絶滅した生物たちを追うように「僕らも」絶滅してしまうのだ。
それを「うっかり」と表しているのが、この短歌における引っかかりだ。ここは、そうやって、や、そのうちに、と言い換えても前の文章とさほど違和感がない部分である。けれど詠み手はあえて「うっかりと」で後の文章に繋げている。
原因はわかっているのだから、それを世界一丸となって取り除けばいいのだ。しかし、その為の足並みが今でも揃っていない。原因による影響がさらに高まっているのに、みんなそれを横目にお互いの調整を繰り返している。 まるでしなければいけない事を目の前にしてぼんやりと時間だけを浪費している状況のように見えてしまったのだろう。だから詠み手はこの短歌には「うっかりと」という言葉が合っていると思ったのだ。
ただこの短歌は全体を通して読むと、とぼけた印象を持つ文章にもなっている。この「僕らも」がどうにもおかしい。そう思ってしまう人もいるはずだろう。地球上の長い歴史で生物は進化し、種は淘汰されていった。しかし、地球内外の天変地異や生物同士の弱肉強食によって「絶滅」していった先の動物と決定的に違うのは、この「絶滅」は私たちが地球温暖化をほったらかしにしているために確実に起きてしまうことなのである。
地球全体を危機的状況に追い込んでいるのだから、自国の領土も生存争いも関係ない。目先の生命への利益以外の利益を優先して「絶滅」する人間は、果たして先に「絶滅」した生物たちと同じ「絶滅」仲間に入れていいのだろうか。「僕らも」と言った詠み手は他の生物ごと殺そうとしている加害者側であるのに、自らをその生物の被害者側の中に含めようとする勝手さが読み取れる。
その道義における隙がある部分を知った上で、もう一度短歌を読み直してみる。文章の真ん中で繋いでいる「うっかりと」という言葉は、解決できる問題を先送りしている人々や、そして自らを迂闊に被害者側に含めてしまうような詠み手、全ての人間に持っている性質であり、やはり、この言葉はここになければこの短歌は成立しないと思えてくるのだ。
気になった点
地球温暖化によって「絶滅」してしまうという原因を暗に伝えようと、この短歌では「氷河が消える」と書いた。ただ森林伐採や侵略行為などなど、人間の行いによって自ら「絶滅」するというのが前半の文章であるのだから、それらの人間の破滅的な行いに言い換えても実は成立する短歌である。
「僕ら」が「絶滅」する原因を地球温暖化と設定したことで、「氷河が消える」と具体的に置かざるを得なかったのだろうと考える。しかし、具体的でなければ読み手には「絶滅」するという説得を与えられないもの確かである。
東京都 おいしいピーマン
テーマ詠より使われたモチーフ『ニホンカワウソ』
ニホンカワウソ(日本川獺)は、日本に棲息していたカワウソの一種。ユーラシアカワウソの一亜種 Lutra lutra nippon または独立種 Lutra nippon とされる。日本全国に広く棲息していたが、1979年(昭和54年)以来目撃例がなく、2012年(平成24年)に絶滅種に指定された。
(中略)
春から初夏にかけて水中で交尾を行い、61-63日の妊娠期間を経て2-5頭の仔を産んでいたと考えられている。仔は生後56日程で巣から出るようになり、親が来年に新たな繁殖を開始するころに独立していたと推定される。(以下略)
ニホンカワウソ-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
インターネットの情報は一度記録されるとほぼ残り続ける。検索エンジンで10年以上更新がされていないブログや「ホームページ」を見つけた人も多いだろう。インターネットが世界で何十年も運用され続けた結果、ここが時間の流れを感じられる場所になってしまった。
記録は残り続けるのが良いと思っている人々やサービス会社が存在する以上、そのサーバーやドライブに保存されている記録はいつまでも残り続けるが、そのような価値の低い記録は無くてもいいと全世界で許容されるようになったら、今よりも加速度的に昔の記録は消されていくだろう。
現実でも図書館で古い書籍が処分されたり、官庁で公的な記録や資料でさえ処分されてしまう時代なのだから、それがデジタルの世界にまで及ばないとはいえない。民間の会社であればなおさらだろう。どのような記録にも価値があると思っている人々と、無駄な記録は領域管理の妨げになると思う人々によるパワーゲームなのだ。
詠み手は「ニホンカワウソ」を調べようと思ってこのホームページを見つけたのだろうか。それとも、既にこの「ニホンカワウソ」のホームページをブックマークしていたのだろうか。そのページは「ニホンカワウソ」について書かれているページで、専門的とはいえないまでも製作者の興味と関心が反映されているページだった。
最新の更新日を見ると何年も前の日付が記載されている。詠み手は他にどのような文章が記載されいるか気になり、さらに他のページを見ようとすると、急に女性の裸のバナーが画面に大写しになった。詠み手は少し驚きはしたが、いつものあの広告かと意識の外に追いやった。
それは様々なサイトに無秩序に掲載されるようになってしまった今となっては、もはや急に出てきても仕方なく、そして頻繁に繰り返されるために見慣れてしまった女性の性を意識させる出会い系や電子コミックの広告だった。その周りには、この広告は「ホームページ」の更新が一定期間無ければ掲載されます、という文言が記載されている。
この「ニホンカワウソのホームページ」は管理会社によって消されずに残り続けており、誰でも見られるまま製作者は放置しているのだろう。もう製作者は「ホームページ」にも「ニホンカワウソ」にも関心がないのかもしれない。もしくはもっと便利な別のウェブサービスで更新をしているのかもしれない。しかし、この「ホームページ」にはそれを示唆するようなリンクや文章も見当たらない。時間が止まった「ホームページ」には、複数の画像をループさせる「エロい広告」だけが、時を刻んでいるかのように動き続けている。
インターネット黎明期からYahoo!ジオシティーズと呼ばれる、無料でホームページを作って公開できるサービスがあった。SNSが無かった時代は、ある「ホームページ」の掲示板やチャットで知り合った人と自作した「ホームページ」を教え合い、その人の日記や趣味に関する文章を読みながら、そのページに設置されているチャットや掲示板でお互いに感想をやり取りしていた。そして、またそこで知り合った別の人たちと「ホームページ」を教え合い交流を広げていくのが昔のネットの一つの風潮であった。
そのYahoo!ジオシティーズは2019年3月末で全てのページを閲覧できなくなったが、私自身さほど困らなかったので、他の人たちにとってもそこまで需要がなかったかもしれない。ただ、ある時、古い情報を参考にしてウェブ記事を書くライターから聞いたのだが、このサービスが閲覧できなくなると、その当時流行っていた様々なコンテンツの情報が簡単には見られなくなってしまい、ウェブ記事の制作がさらに困難になってしまうと言っていた。どこでその情報が必要とされるのかは、時間が経ってみないとわからない一例だろう。
そうして本当に誰にも見られることなく消えてしまった、無名の人々による文章は多くあるだろう。しかし、その文章たちは今の人々にもサービス管理会社にも書いた本人にも価値はなかったのだ。詠み手がたまたまこの「ホームページ」を見つけられたのは、ウェブサービス会社がまだ生きているからであり、そこにはホームページに勝手に張り付けられている、どこでもあるような「エロい広告」によって支えられ続けていたという現実があるからだ。
そのように考えてから短歌を読み直す。「ニホンカワウソ」はすでに絶滅してしまったが、もしかしたらインターネット上の文章も世代が古くなればいつか絶滅してしまうのかもしれない。今は生まれる文章や動画の方が多いので情報自体には困りはしないが、古い世代による記録はそのような企業の管理選択によって徐々に消されていくのだろう。現実では最新のものに最大の価値があるのだ。
詠み手は「ニホンカワウソ」という過去の生物と更新がされていない「ホームページ」という古いデジタルデータに、絶滅というイメージを重ねてみたのだ。「ホームページ」の絶滅を避けるためには、制作者や管理会社の手が入り続けなければならない。しかし、それらの手が時間によって一つ、また一つと減っていき何気ない文章や画像たちは絶滅していく。
この無名の人々の「ホームページ」は何時まで閲覧できるのだろうか。誰かが「ホームページ」まるごと保存しない限りはいつか消えてしまうだろう、しかし、詠み手も含め自分のドライブにまるまる保存するだけの価値はないとも思われているのも確かだ。好事家たちが既にそのような古い記録群を丸ごと保管しているのかもしれないが、全てを公開するためには今は法律や時間を経なければ難しい。
生物も記録も永遠ではなく、いつか消えると分かっている。しかし、いつこの世界から消えてしまうのか、この現実においては誰にも分からないのだ。誰にも相手にされず絶滅を待つしかない「ホームページ」たちは、人から忌避される「エロい広告」によって生きながらえているのかもしれない。そして消えてしまってから、それらには価値があったのかもしれないと考え始めるのだろう。
気になった点
この「ニホンカワウソのホームぺージ」は実在するのでしょうか。私も「ニホンカワウソ」で検索してヒットしたページを古い順から調べてみたのですが、過去のブログの記事や「ホームページ」は見つかりますが、「エロい広告」が貼りつけられたものは見つかりませんでした。
この「ニホンカワウソ」も「ホームページ」も字数に合わせて置かれているので、ここはトキでもいいですし、ブログと置き換えても問題ないです。余った文字で体言止めにするのをやめたり、より詠み手の心情に寄り添うような文体に直してもいいかもしれません。
次は『野性歌壇 短歌鑑賞 2020年 1月号 特選 3首』に続きます。
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