野性歌壇 短歌鑑賞 2020年 1月号 山田航 選 佳作 10首
初めまして、八号坂唯一です。短歌集を持たない投稿歌人です。
投稿で参加している小説野性時代の連載『野性歌壇』ですが、自分では投稿だけして他の歌人の作は読まずに生きてきました。
ただ前々からこの界隈で言われているように(もともと短歌を読むだけの人がものすごく少ない事も理由ですが)素晴らしい歌人は、他の人の作品を読み込むことも秀でていなければならないそうです。
作り手としても素晴らしく読み手としても秀でている歌人(ただし今まで作った短歌は全て捨てています)になりたいので、私も短歌鑑賞を行う事にしました。私なりの短歌の楽しみ方が見つかればいいなと思っています。
好きな連載は、週刊ファミ通の『ファミ通町内会』です。
ちなみに小説野性時代を発行している株式会社KADOKAWAの売上に少しでも貢献するために、短歌自体は掲載しません。検索できるように出身地と歌人名を記載しますので、お手元に小説野性時代を用意して記載されている短歌と合わせてご覧ください。
今回は 2020年1月号 の『野性歌壇』 山田航 選 佳作 を全て鑑賞します。
テーマ詠は 「絶滅した(もしくはしそうな)生き物」
2020年1月号 山田航 選 佳作 10首
北海道 秋山真琴
テーマ詠より使われたモチーフ『進化する生物』
テーマ詠ですが具体的な動物を書いていません。ただ「わたしたち」と自己と読み手である読者を認識できる知性がある、そして進化によって発生した集団であると理解できる程度ですが、おそらく多くの読者がヒトの事だろうと思われるでしょう。
そのように読むとすれば「わたしたち」という言葉によって、読者も取り込まれてしまいます。そして「進化し損ねる」という決定的な失敗によっていつか読者を含め滅んでしまうだろうというのが、やや自嘲ぎみに語られています。
その皮肉的な態度を強調するのがその前にある「正しく」という言葉で、正しさというのは世の中では物事がより明るく幸せな状況へ前進するために使われる言葉と認識されていますが、ここでは滅ぶという悲劇からは避けられないという意識付けの為に使われている。
「正しく」を「正しい」という形容詞に言い換えることも可能と言えば可能ですが、それだと進化に正解があるという事になってしまいます。正解を選べなかったという誤った選択を取ることで失敗をしてしまったと読まれてしまう。
そうではなく、「進化し損ねる」ことが「わたしたち」にとっては「正しい」わけですから、滅ぶことから避けられないことも「正しい」ことになります。
「進化し損ねる」という言葉には、他と比較する意図が含まれています。他の進化できる生物たちは次の世代へと正しく進化しているのに、私たちは進化し損ねてしまう。遅れをとってしまった存在は、いつか自然から淘汰されてしまう。
その言葉にヒトにまつわる環境問題や社会問題などを喚起することができますが、問題がどのようなものであれその問題によって滅んでしまうことが避けられない。そのような問題を抱えてしまうのもある意味「正しい」からとも読める。ヒトとして「正しい」から滅んでしまう。
「正しい」という言葉を負の感覚して自嘲気味に使う事で、滅ぶという言葉に説得力を持たせている短歌です。
気になった点
夏という時期を指定する必要性があったのかなと思いますが、おそらくこの短歌をSFや青春小説的に変えようという意識が働き、それを読者に予感させるために夏を取り入れているのだろうと思われます。
しかし、時期を示さなくても大元の意図は伝わるので、ここは別の言葉に変えたほうがいいのかもしれない。例えばここに「正しい」感覚の言葉を重ねて滅ぼすことをさらに強調するとか。
新潟県 山崎柊平
テーマ詠より使われたモチーフ『翼竜』
翼竜 (よくりゅう、英: pterosaur[1], winged lizard, pterodactyl[2]、学名: Pterosauria) は、中生代に生息していた爬虫類の一目、翼竜目に属する動物の総称。初めて空を飛んだ脊椎動物である。
(中略)
上記の体重も含めて、骨格構造は飛行のために特殊化しており、陸上生活への適応は低く、鳥類のような活発な歩行などはほとんどできなかったとされている。(以下略)
翼竜 - フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この翼竜は後の白亜紀末の大量絶滅によって滅んでしまう。その太古の昔に行われていたかもしれない翼竜たちの営みに思いを馳せる短歌です。
この翼竜がどの種を表しているのかは書かれていないが、「つばさを重ね合わせる」というその行為が手と手を取り合っている人間の恋人たちのように感じられる。翼竜たちを人間として捉えているのは、「恋人たち」と表現していることからも明らかで、昔から生物がお互いを思いあうことは変わらないだろうという意図も含まれている。
陸上では生きていくことができないらしい翼竜が、飛ぶための大切なつばさを相手に預けている。それだけの感情を相手の翼竜に持っていることも、この短歌から読み取れる。
翼ではなく「つばさ」としているのは、単に漢字だと硬い感じがしてしまうからひらがなにひらいているのかもしれない。無理に読み取ろうと思えば、「恋人たち」と置き換えている翼竜の翼は人間の「手のひら」であり、その「てのひら」の柔らかさを想起させようと意図しているのかもしれない。
「星の降る夜」はつばさを重ね合わせている恋人たちの情景として分かりやすい情緒的な表現ではあるが、翼竜をモチーフとしているので大量絶滅のきっかけになった天体衝突を言い換えているのかもしれない。
そうなると、これは本当に絶滅してしまう直前の翼竜たちの最後の行動になり、じきに破滅してしまう二人にまとう静謐な雰囲気を感じとってしまうのはこの短歌を深読みしすぎだろうか。
擬人化という手法は無関係である別の存在を人間に置き換えるがゆえに、人間が抱えている以上の人間らしさを読み取ろうとする作用が働いてしまう。
人間には人間の行動原理や形態があり、別の存在のそれとは違うのは当然のはずであるのに、擬人化によってそれらの存在含め全てを人間のものとしてしまう。それ故に詩的表現の技法として多用されやすいが、文字数が少ない短歌や俳句ではその背景の情報量を増やすためには仕方ないところもある。
気になった点
「重ね合わせた」なのか、「重ね合わせる」なのかどちらがいいのだろうか。
「重ね合わせた」だと何か過去のように感じ距離を感じてしまうので、私としては「重ね合わせる」の方が臨場感と親しみがあって好きなのだが、それは先の大量絶滅の瞬間として読んでしまっているからなのかもしれない。
大阪府 たろりずむ
テーマ詠より使われたモチーフ『マンモス』
マンモス(英語: mammoth)は哺乳綱長鼻目ゾウ科マンモス属 (Mammuthus) に属する種の総称である。現在は全種が絶滅している。
(中略)
ところが温暖化に伴って湿潤化し、一年の半分は大量の雪が降り積もる、植物の生育に適さない大地へと変貌していった。これによりマンモスの食料となる草木が激減し、マンモスもシベリアから消えていった、という推定である。 (以下略)
マンモス - フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
まず気になることとして本当にそんな科学者がいるのか調べてみましたが、私のググり力では見つかりませんでした。もし実在するのであれば、こっそり教えてください。
ここではモチーフであるマンモスは遠い過去の存在であり、主眼は科学者に置かれています。現在ではマンモスを復活させるのは世紀の発見であるはずなのに、その科学者のSNSから見える日常は食べ物ばかりだった。
この科学者と短歌の詠み手との温度の差をどのように捉えるかで、この短歌の味わいが変わってくるように思います。ここで取り上げる詠み手というのは、この短歌の作者のたろりずむさん自身ではなく、この気持ちを作った仮想の詠み手のことです。
そのSNSを見て貧相な食生活だとがっかりするでしょうか。それとも偏った食生活に心配するでしょうか。むしろ食べたいものばかり食べて羨ましく思うでしょうか。成功している科学者だけれど国から援助されていないという研究に対する危機感を感じるでしょうか。マンモスの研究なんていう無駄なものにお金を使っている科学者の存在自体に腹を立てるでしょうか。
この短歌は読んだ人によって感じ方が変化します。あえてそのように作っているからです。事実らしいものを書くと、読み方はその読み手の立場によって変化してしまうのです。その人の見せていない現実を詮索してしまうのですが、見えていないものはどうやったって見えない。ではどこから見ようかとすると、自分の頭の中から見ようとするのです。
今までの経験によって自分の頭の中は作られますから、どうしても見え方に違いが出てしまう。たろりずむさんとしては、ある種の感情を持ってこの短歌を作られたかと察しますが、しかし感情自体は書かれていない。読み手に感情の動かし方を任せている。
秀でた読み手であれば作者の意図まで見抜き、さらに新しい読み方も提示するのが良いのでしょうが、私は作者本人ではないので難しいです。
簡単なストーリを書けば、テレビか新聞でマンモス復活の記事を読み、どんな人だろうかと本人の名前で検索したところ、本人のSNSらしきものを見つけたが、それが研究内容を平易に伝えるものや、芸術や政治など教養溢れる意見ではなく、ご飯の写真ばかりでなんかがっかりしてしまったというものでしょうか。
有名人や著名人に対して勝手に持っている有能なイメージが、SNSで崩されるという一般人の無為な行為を意図しているのかもしれない。そういえばSNSにも上手い人と下手な人が居るらしく、下手な人はただ日常ばっかり呟いていて面白くないらしい。
そこのところを分かっているSNSが上手い人は、一般人が普段では味わえない非日常部分を出しているから、フォロワー数も増加するみたいですよ。私にはできません。
気になった点
ある種、社会詠とも読めなくもない短歌であり、個人批判ともとられかねない側面がありますが、今の時代は個人を批判すると変な騒動が起きかねない。この科学者は実在はしないのだろうと私は思っていますが、もし存在されてしまったら、作者はどのように対処するのだろう。
広島県 堀 眞希
テーマ詠より使われたモチーフ『マンモス』
この短歌はマンモスというイメージを使って、詠み手に起きている大変な状況、食あたりをマンモスに想起される擬音語で表現しています。
そのまま読めば読み手に起きているのは食あたりですから、どんなものを食べたとしてもその食あたりの症状自体にはそこまでの差はないでしょう。しかしそれをマンモスという今は存在しない巨大な生物の持つエネルギーに置き換えて、この吐き気の酷さを読み手に伝えようとしています。
マンモスを食うという行為に、狩猟のイメージも想起します。とても精力的な行動だけれど、食あたりにあってしまいその精力が吐き気となってやってくる。何度も言いますが、食あたりの症状は食べた種類だけでは影響しません。食べたときの状況と食べた人の体調などが複合的に絡まって、症状として表れるのです。
「マンモスを食って」とありますが、マンモスの味はどのようなものなのでしょうか。はじめ人間ギャートルズに出てくるマンモスの肉、いわゆる『マンガ肉』と呼ばれる肉としてイメージはできますが、味となると分からない。現代の肉として再現することは可能ですが、現代の肉として再現したものは現代の肉の味しかしません。マンモスの肉を味わうには、マンモスのいた時代に行って食べるしかない。完璧には想像できない。
一方、食あたりによる「吐き気」は、誰にでも想像が出来そうです。体の内側からやってくる抑えようの無い震えと、胸の内側に存在する管が無理やり締め付けられるような感覚。なんとか吐かないようにコントロールしようと力を入れようとしても、その力とは反対側の吐こうとする力が抵抗してくる。自分の内側で必死に行われている暴力的なあの感覚。
その反対側の力がマンモスの突進のように「ドドドンと来る」のであれば、とてもじゃないが抑えられそうにないと思えます。さらに食あたりで弱っているのですから、なおさら耐えられそうにありません。
実際の味やそれに引き起こされる症状など分からなくても、その形態によるイメージが持つ力で強引に現実と結びつける面白さがある短歌だと思います。
マンモスが絶滅していることもそのイメージを巨大化させることに起因しているかもしれません。「大いなる」という表現はマンモスから引っ張られて出てきている表現ですが、実際は最大でも肩の高さまで4メートルから5メートルぐらいで思っているほど大きくはない。それよりも巨大な生物はマッコウクジラなどが現実に存在しています。
ただ「大いなる」という言葉はその存在を称える表現でもあり、地上を悠々と駆け抜けていったであろうマンモスに対して、そのような憧れも含まれているのかもしれない。しかし、その称賛は結局「吐き気」という食あたりの症状として小さく扱われてしまっている。この大言壮語さもこの短歌の味わいの一つだと思う。
いや詠み手からすれば、それどころではないくらいの酷い吐き気なのだけれど。
気になった点
前半575の部分がもう少し詰められそうな気がする。単に私が「○○のような」という比喩が嫌いなだけだと思うが、変に言い換えると本来持っている大げさな感じが無くなってしまいそうでもある。
あと「吐き気」は「ドドドンと来る」のだろうかと根本を揺るがす疑問も浮かんだが、使われているモチーフがマンモスであるのだから動かしようがないと思われる。
東京都 西生ゆかり
テーマ詠より使われたモチーフ『人類』
ピアノが置かれている場所はどこだろう。もう誰も帰ってこない家に置かれているのか、従業員すら消えてしまった高級ホテルの中か、それとも朽ち果てて空が見えている何かの廃墟か。
想像を別の方向に動かして、誰にも弾かれることがない現実のストリートピアノとも言えるような気がしたが、それは「人類絶滅前夜」という言葉が入っているのでそれは絶滅の様相とは相容れないと思える。
しかし「前夜」という言葉は、人類の最後の1人が死んでしまうという状況以外にも、今生きている70億人が天変地異により一瞬にして死ぬという状況も想像できる。ただどちらの想像にしても、もはや相手にされなくなった人類に弾かれるより自ら演奏することを選んだピアノの感情を確かめることは、絶滅していく人類にはできない。
このピアノは固有の一台を示しているのだろうか。複数であればピアノたちと表現するのが自然ではあるがピアノという名称自体を用いることで、全てのピアノを示すことも可能である。いろいろな場所で、人の気配が無くなった片隅に置かれている、さまざまな種類のピアノたち。それらが合わせたかのように同じ曲を弾く。それは人類に捧げるエンドロールだったのかもしれない。
この短歌では詠み人が存在せず事実だけを書かれているように読めるが、「もう」という言葉が最初に入っているために、詠み人の不在に対する揺らぎが生まれている。誰かが自動で演奏させようとしてピアノに会いに来たが「もう」自動演奏されていたのだろうか、それともピアノが人類の絶滅を予感して「もう」早めに自動演奏にしたのだろうか。後者であれば詠み人が不在でも成立する。
それを神の視点という言葉では片付けたくはないが、言葉そのものは人間とは切り離されている為に、そのような一見「見られないのに見られる」という矛盾した状況が生まれてしまう。その状況の矛盾は読み手側の飲み込み方に関わってくるので、読み手の経験してきた環境によるとしかいえないのだけれど、短歌はそのような状況の矛盾は比較的に受け止められやすいように思います。
「なっている」の部分が、なっていた、になっていれば、一層、詠み人の存在が浮かび上がりやすくなりますね。助動詞の変化で人の存在が変化するのは不思議な感じがしますが、これは私がそのように感じるように経験してきたからでしょうか。
さておいてもピアノは人類とは違い、どこにも行けずそこにいるという共感できる孤独さは残されており、どのような読み方であっても必ずそこに戻ってくるのは、作者の意図をちゃんと感じられる短歌だと思います。
気になった点
ある限定的で特殊な状況でありながらも、踏み込もうとすると具体的な解釈が分かれてしまうところが気になってしまう。自動演奏で弾いている曲は? 人類絶滅はどうやって起きようとしているの? ピアノはアップライト、それともグランドピアノ? そちらの状況はどうなっているんだ?
書かれている文字数自体が少ないので、それらはこちらで自由に解釈すればいいという反面、自由な分、言葉は抽象的に逃げられてしまう部分があり、難しいところです。
北海道 千仗千紘
テーマ詠より使われたモチーフ『プテラノドン』
プテラノドン(Pteranodon)は、中生代白亜紀後期(約8,930万 ~ 7,400万年前)(詳しくは、中生代白亜紀後期前期- 同後期、コニアク階- カンパニア階。年代の詳細は「地質時代」で確認可能)に生息していた翼竜の一種(1属)。
(中略)
推定体重は15 - 20キログラムと中型犬と同程度でしかなく、力強く羽ばたくために必要な筋肉量を付着させ得る骨表面のスペースは鳥類ほど多くない。それゆえに、昔の映画でしばしば描写されたような、人間を鷲掴みにして空中に舞い上がるだけの力は無かったと考えられる。(以下略)
プテラノドン - フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
飛ぶための機構を備えている生物たちは、成長するにつれて空へ行く方法を経験によって獲得する。人間は自身では飛ぶことはできないが、進化と共に積み重ねてきた科学によって人間は空に行けるようになった。
しかし、それらの経験や知性は種が残り続けていなければ消えてしまうものである。プテラノドンは、すでに絶滅してしまった。本当に飛んでいたのかもわからない。いま空に行けるようになったとしても、プテラノドンに会う事はもうできない。
もしかしたら詠み人のまどろみの中であれば、時空を超えてプテラノドンに出会えるのかもしれない。理性という枷から外れて自由になった想像力であれば、そのような奇跡もあるのだろうが、全てを見ているのは機内で眠ろうとしている詠み人だけなのである。
はっきりと飛行機や旅客機は書いていないので、詠み人はどこにいるのかはわからないが、「機影」や「離陸」という言葉、そして「プテラノドン」という生物を結び付けて、飛行機と予感させることはできる。
それは離陸前の滑走路だろうか、徐々に速度を上げていく飛行機の中で、詠み人は少し疲れているのか、眠りに付こうとしている。飛行機の窓から既に飛んでいるいくつかの飛行機やその影が、絶滅した翼竜プテラノドンのように見える。しかし鳴き声はわからない。離陸に備えているのか旅客機の中もひっそりとしているのだろう、静かである。
あるいは空港内にて離発着する飛行機をロビーから眺めている人なのだろうか。誰かを見送って、もしくは見送った後なのかもしれない。緊張感から解放されて少し意識がぼやける。その視界の中で見る空の向こうに消えていこうとする機影は、生き生きと飛ぶ翼竜プテラノドンみたいだ。次の飛行機が離陸しようと滑走路の上を加速していく。しかし、その飛行機で轟くジェットエンジンの音は窓に遮られて聞こえない。先のプテラノドンに追いつこうと滑らかに、そして静かに飛行機は飛んでいく。
どのような解釈だとしても読み手の中では、乗っている飛行機、見ている飛行機がプテラノドンになる瞬間があり、そこには音は存在しない。想像でみる映像の力強さを感じてしまうが、短歌という表現がおおむね声にだして読まれるというよりも、目で見て理解する表現だからなのかもしれない。
それらしい言葉同士を目で読み取ることでつなげ、別の言葉を読み手に生み出させるという手法を使っている。連想ゲームみたいだけれど、自分が想像した全てを伝えたいのであれば、普通に言葉を羅列すればいいのだ。短い文章で伝えたい情報をどうやって収納するのか、短歌にはそのような面白さも詰まっていると思う。
気になった点
「機影」という言葉、これは飛行機でも良かったのではないか。文字数としては6文字で違和感があるが、「機影」のままだと空港内から離陸しようとする飛行機の窓からは上手く見えないのではないか。「機影」という言葉にある程度の大きさを想像してほしいと作者は意図しているから、飛行機にできなかったのではないかと思う。
では「機影」も想像の中の話だとすると、今度は「幻視した」という言葉に違和感がある。全て想像の中で完結している短歌になってしまうので、「幻視」という言葉の魅力が減少しているような気がするのだ。
千葉県 芍薬
テーマ詠より使われたモチーフ『アンモナイト』
アンモナイト(分類名:アンモナイト亜綱、学名:subclassis Ammonoidea)は、古生代シルル紀末期(もしくは[1]、デボン紀中期)から中生代白亜紀末までのおよそ3億5000万年前後の間を、海洋に広く分布し繁栄した、頭足類の分類群の一つ。全ての種が平らな巻き貝の形をした殻を持っているのが特徴である。
(中略)
一般的なアンモナイトの殻は、巻き貝のそれと共通点の多い等角螺旋(対数螺旋、ベルヌーイ螺旋)構造を持っていることは確かであるが、螺旋の伸張が平面的特徴を持つ点で、下へ下へと伸びていき全体に立体化していく巻き貝の殻とは異なり、巻かれたぜんまいばねと同じような形で外側へ成長していくものであった(もっとも、現生オウムガイ類がそうであるように縦巻きである)。 (以下略)
アンモナイト - フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
貝という言葉には、自らの身を守る殻というイメージが密接に結びついている。そして貝はそれぞれ孤独に生きているというイメージもある。実際の殻の硬さも、そして生殖もそのようなイメージとは違うのは調べればすぐにわかるのだが、瞬間的に気づかせることで勝負する短歌では、そのような読み手の熟慮よりも、すぐにイメージしやすい言葉を使用する傾向があります。
周りの人と違って不器用にしか生きられない詠み手は、浴槽の中でアンモナイトのようにうずくまる。アンモナイトの螺旋のように思考は渦を巻いていて、自らどうしようもなくなっている。いまは「夜の浴槽」や「浴室」といういくつもの殻に閉じこもる他ないのだ。
「夜」は人間、というよりも自分の本質を現すときによく使われる状況でしょう。朝や昼では他者と向き合っているから、どうしても他人の目が意識されやすい。夜であれば一人になる状況が多く、多くの人の共感が得られるでしょう。
道徳や常識も多様化する社会であれば、昼でも朝でもいつでも孤独であるという共感を生む短歌も出てくるのでしょうが、そのような新しい共感が人々の中に生まれるにはまだまだ時間がかかると思います。
わざわざ「夜の」という言葉を付けているから、もしかしたら「浴槽」という言葉は比喩なのかもしれません。夜という真っ暗でありながら透明な液体で満たされている世界では、詠み手は呼吸することもうまくできない程の孤独を感じている。そのような「浴槽」のような社会から切り離された場所で膝を抱えてじっと座っている。
「浴槽」はプライベートな空間であるという共通認識でしょう。伊集院光のラジオで泣きながらお風呂に入るという共感をネタにしたハガキや、今、急にふとモーモールルギャバンというバンドの『裸族』や『俺、風呂入るトゥナイト』という曲が浮かびました。
人と違う事を表現したいときに、身体の動きというのは共感を得られやすいです。他人の動きは後頭部背中まで見えるのに、自分の動きは簡単には見られない。この意識の一方通行が、本当はそれぞれ抱えている問題であり、それが個性だというのは、自分から積極的に自分を見ようとしなければ分からないものだとは思いますが、私を含め、鏡やカメラに映った自分を見るのが怖い人も一定数います。
この短歌では呼吸がうまくできないのが他人と違うという点で使われています。呼吸は普段は意識されない。しかし、緊張や不安などの極度な状況に置かれたときに、過呼吸という症状として表れるか、平穏を取り戻そうと深呼吸をしたりすることで呼吸は意識されます。
この短歌では初めに呼吸の不完全さが意識されているので、詠み手はいま人とは違う状態に陥っていると読み手は意識します。人間の型が緩んでいるともいえる状態は、別の存在に変化しやすくなっている状態とも言えます。変化する理由があれば、人はどのような存在に変化してもいいのです。
ここでは絶滅してしまったアンモナイトになっています。現実には化石として存在し、過去では貝として生きている。どの時代であっても黙しているしかない状態である詠み手は、時間が経ち「夜の浴槽」から出たときに何を感じて、喋るのでしょうか。
気になった点
「夜の浴槽」という部分。アンモナイトという生物の生息域でもある水と、孤独であるという部分を強調するための環境として置かれているとは思いますが、スマホや本を持ち込めるような利便性が生まれてしまったいま、「浴槽」はまだ孤独な場所なのだろうかと思ってしまう。
プライベートな空間としてであれば、他に寝室やトイレ、車の中など他にも挙げられそうです。しかし「浴槽」と「アンモナイト」という組み合わせで、片方を別の言葉にするのであれば、もう片方も別の言葉にしなければうまくかみ合わないと思います。
東京都 常本道子
テーマ詠より使われたモチーフ『朱鷺』
トキ(桃花鳥、朱鷺、鴇、Nipponia nippon)は、ペリカン目トキ科トキ属に分類される鳥類。
(中略)
1981年(昭和56年)1月11日から1月23日にかけて、佐渡島に残された最後の野生のトキ5羽全てが捕獲され、佐渡トキ保護センターにおいて、人工飼育下に移された。これにより、日本のトキは野生絶滅したとされる。 (以下略)
トキ -フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
厳密には絶滅していないが、国際自然保護連合のレッドリストには絶滅危惧に登録されているトキ。メディアで絶滅目前であると言われるたび、トキは野性では絶滅しているのか、いま日本にいるトキは日本産だっただろうか、人工繁殖はどれぐらい成功しているのかなどと思い出すが、また日常を繰り返すうちにその存在を忘れていってしまう。
しかしトキは情報の形であればしっかりと生きている。先に私が引用したWikipediaや書籍には、その生態や歴史が想像できるほどに記載されている。まだ現実社会と触れているトキであるのに、そこまで馴染みが無いと感じるのは頻繁に人目に触れるほどの個体数が居ないからなのだろう。人が馴染みを感じるのは絶えず能動的に情報を得ているときか、絶えず受動的に情報を与えられ続けているかのどちらかでしかない。
郵便料金が値上げしました。と言われて、いつ値上げしたっけと思う人は、手紙やはがきを頻繁に出さない人だろう。昨年の10月に消費税率改定により通常ハガキが62円から63円、定形郵便物(封書)は82円から84円になりました。郵便料金改定前の古いはがきをそのまま送っても、郵便料金が不足しており自宅に戻ってしまう。
不足分を補うためには1円、2円分の切手を用意してはがきに張り付けて送ることになる。1円切手に使われているのは郵便制度の父である前島 密の肖像、2円切手に使われているのはエゾユキウサギの絵である。郵便料金改定直後はそれらの切手を貼りつけて郵便ポストや窓口に投函する人々のニュース映像を見た人もいるかもしれない。
さて、改めてこの短歌を読み直すと、トキというモチーフと去年行われた郵便料金改定という事実とは一致していないように思える。しかし、トキが使われている切手は確かに存在する。10円切手である。10円切手のトキは2015年2月2日に販売開始しており、以来、現在でも販売されている。
この10円切手の時が大量に使われた時期がある。2017年6月1日に行われた郵便料金改定により、はがきが52円から62円に値上げした。その時の人々の動向はSNSなどに書かれているのでそちらをご覧いただくとして、実際、その時期の10円切手の需要は高かったように読み取れる。
つまりこの短歌は、去年の郵便料金値上げについて詠んだ短歌ではなく、2017年の郵便料金値上げについて詠んだ短歌なのだ。
切手特有の独特な縁を絵画の額縁として捉え、値上げ需要により大量に印刷されていくトキは、その頃郵便を利用する人たちには確かに印象付けられただろう。またトキという生物が情報として人々の中に復活したのだ。
さて、穿ちすぎた見方をすれば、この短歌は未来を冷笑的に捉えた短歌としても読める。はがきの郵便料金は消費税率改定による値上げを含めなければ、10円ずつ値上げしているのだ。1972年に10円だったはがきの郵便料金は確実に10円ずつ値上がりし、47年という時間を経て63円になった。料金の増減は景気動向による部分もあるが、それとは関わらず郵便の利用者は減っている。この先も郵便料金は値上げするだろう。その際、以前の慣例に従って郵便料金を10円値上げするのは想像に難くない。
郵便というシステムが残っている限り、そして10円切手にトキが使われている限り、人々の中でトキは何度も復活を繰り返すのかもしれない。しかしそれは情報のトキであり、実際のトキは今も絶滅危惧にさらされている。トキが私たちの眼前に現れ、本当に復活したと思う日は来るのだろうか。
気になった点
「朱鷺」は漢字でいいのだろうか。トキという表記の方が読み手には絶滅を喧伝されていた頃のイメージと結びついて、復活という意図が伝わりやすいと思う。ただトキという音は、時間を表す言葉の「時」でも使われているから、そこと読み間違えられるのを恐れたのだろうか。
短歌において漢字とカタカナをどのように使い分けるかは歌人にとっても難しい部分だ。漢字だらけの短歌の中に突然カタカナが使われると、漢字にしないのかという違和感もあるし、私のように社会的なイメージ通りに表記するのも間違っていないと思う人もいる。
東京都 シロソウスキー
テーマ詠に使われたモチーフ『マンモス』
マンモス校は、1970年代から1990年代にかけて、小学校や中学校では、特に郊外に住宅ができたものの既存の学校に通うといったケースにおいて多々見られ、高等学校では当時のベビーブームによる私立学校の大規模化とともにこの名称が使われた。
(中略)
現在では新設校の増加や少子化によりマンモス校は少なくなっているが、東京特別区・神奈川県川崎市など高層マンションの建設が盛んな地域では、逆にマンモス校化している学校もある。 (以下略)
マンモス校 - フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
校舎がある場所はどこだろうか。1970年頃の第2次ベビーブームにより、生徒数が増加し、都会の私立高校は次々マンモス校化していった。現在でも住居の一極集中化によりマンモス校化する地域もあるらしいが、偏差値や受験者の増加によりマンモス校化する私立高校もある。
短歌に詠まれた時期やマンモス校舎の場所は大まかに想像ができそうだが、はっきり断定するのは難しい。その点で言えば、どの世代にも伝わる短歌になっている。
「ホルマリン漬け標本」が置かれている4階の部屋はどこだろう。おそらく理科室を想像するかもしれないが、もしかしたら廊下かもしれない。その近くには採光するための窓があるが普段はあまり意識されていないのだろう。
放課後、日没を間近に迎えて徐々に暗くなるその校舎の窓に、沈み切る前の「夕日」が入ってくる。4階という校舎の高さにより夕日の動きには、地上階には無い高低差が生まれている。「ホルマリン漬け標本」がその夕日を浴びて様々な影を映している。その影がゆっくりと上に伸びていくにしたがって、校舎も夜を迎えようとしている。
この短歌も詠み手の存在をどのように捉えるかで、印象が違ってくるだろう。そもそも誰も近づかない場所であるなら、この「ホルマリン漬け標本」は埃をかぶったまま、長い間、何度も夕日にさらされているのだ、といった誰も見たことがない情景を読み手は見るのだろう。
もし詠み手が存在するのであればどうだろうか。何かの用事で帰りが少し遅くなった4階の校舎にいるその詠み手が、ふと視線の先に「ホルマリン漬け標本」に照らされた夕日とそこから伸びていく影を見つける。校舎の階段を下りながらも、その橙色に光る「ホルマリン漬け標本」が頭から離れないのだろう。
この「ホルマリン漬け標本」に使われている生物は一体なんだろうか。私にはカエルやフナがイメージされるが、ネット上で調べてみると人間の脳がホルマリン漬けになっていると知った。生物についてはもう少しイメージの幅を広げる必要があるのかもしれない。
「ホルマリン漬け標本」はまだ怖いと思われているのだろうか。『学校の怪談』シリーズなど、学園ホラーでは時折、理科室の人体標本やホルマリン漬けといったものが恐怖の対象として演出されていたが、SNSが広まった今となってはその流れは、恐怖の規模を地球全域に広げ『都市伝説』へと拡大していった。
それと共に「ホルマリン漬け標本」のような生物の持つ肉感が生み出す単純な恐怖は、大人による児童への精神上の配慮によって取り除かれていった。『都市伝説』という実際にあったとされる話を元にして生んだ不安や恐怖が今の若い人たちにとってリアルであり、それらには人間の闇が生み出しているという現実感と正当性が伴わなければならなくなった。
そう考えれば「ホルマリン漬け標本」は長期保存を意図した教育資料でしかないはずであるのに、我々が勝手に別の感情を与えてしまっているに過ぎない。この短歌にある「4階のホルマリン漬け標本」も、時代の変遷によって人々からいろいろな感情を与えられてきたのだろう。
今、この「ホルマリン漬け標本」にはどのような感情を与えるのがいいのだろうか。それは読み手が過ごしてきた学生生活の経験に任せるしかないのだが、それがどのような感情であったとしても「ホルマリン漬け標本」以上の年月を過ごしてきた、より沢山の感情を与えられた夕日の橙色の光が、校舎の窓から私たちを静かに包み込むのだ。
気になった点
私は経験がないので想像するしかないのだが、マンモス校と表記されている以上は私立高校が設定されているのだろうか。どうしてその部分が気になるのかというと、この部分を小学校、中学校、高校、大学と変えていくにつれて、詠み手の目線や周りの雰囲気が違ってくるからだ。
それぞれの学校には、そこに通う生徒たちの悩みや考え方が渦巻いている。そこまでの詳細な部分は短歌には書かれていないので私たちが自由に考えていいし、作者の意図はそこに置かれていないのは理解しているつもりだ。
郷愁に満ちた作者の時代性のある短歌にするか、今の若い人にも共感されるような緊迫感を持つ普遍性のある短歌にするか、誰に向けて伝えるかというのは作者にとって悩ましいものである。
神奈川県 久藤さえ
テーマ詠より使われたモチーフ『シーラカンス』
シーラカンス(学名:Coelacanthiformes)は、シーラカンス目(Coelacanthiformes)に属する魚類。化石種も現生種も含めた総称である。管椎目(かんついもく)とも呼ばれる。
(中略)
シーラカンス目は、白亜紀を最後に化石が途絶え、1938年に至るまで現生種が確認されなかったこと、化石種と現生種の間で形態的な差異がほとんど見られないことなどから、これら2種は「生きている化石」との評価を受けた。 (以下略)
シーラカンス-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
テレビでもスマホでもいい、詠み手は何かの映像を眺めています。おそらくは何処か海外の海中映像だとは思われますが、それははっきりとは分かりません。色とりどりのサンゴ礁を映しているのでしょうか、小魚の群れを追いかけているのか、詠み手が眺め続けているぐらいには引き込まれる映像です。たまに回線の影響かその映像に乱れが生じます。
その乱れる映像にゆっくりと大きな魚が通り過ぎていきます。一瞬のようだけれども、詠み手にはその魚が「シーラカンス」であるのがはっきりと分かります。あっ、と詠み手が思う間もなくその魚は画面の外へ行ってしまう。絶滅したとされていた「シーラカンス」が実際に泳いでいるのを見てしまった。
今まで見ていた私たちの世界にあった海中の映像が、その瞬間から別の「世界」の海中を映しているように見えてしまう。さっきの「シーラカンス」はその映してはいけない部分であり、偶然映ってしまったのは「放送事故」だったのかもしれない。そのような思惑とは関係なく、画面の中の海中は青いまま映し出されている。
そのように現実的に読むのも可能ですし、もっと乱暴な想像力を使って読むことも出来そうです。例えばある「世界」の中を泳ぐ巨大な「シーラカンス」が、餌である小魚のような「世界」にあるカラフルな「ノイズ」を飲み込んでいきます、するといろいろな色に包まれていた「世界」が青一色になって何も映っていないかのように静まり返ってしまう。
これではあまりにも抽象的すぎて漠然と読んでいるように思えますが、「シーラカンス」という一度絶滅したと思われていたはずの生物という神秘さを用いて、漠然とした言葉同士さえも強引に結び付けることも可能であるという一例として考えてみました。
ここでは「ノイズ」と「放送事故」、モチーフの「シーラカンス」と「青さ」の二つの連想がされているようです。どちらが連想の親であるのかは短歌を読むだけでは判別するのは難しいですが、私としてはテーマ詠であった「シーラカンス」から海の「青さ」を、そして「放送事故」から「ノイズ」を連想したと思われます。
あとはどのように言葉を組み合わせていくのかという部分になりますが、ます「シーラカンス」の魚類としての生態と「ノイズ」という目に見える存在を小魚に変換して飲み込めるようにします。そして、海のイメージで合った「青さ」を「放送事故」に用いられる環境映像かカラーバーの「青さ」に繋げることによって「放送事故」が映す「世界」に変化させるわけです。こうすると表出の短歌の文章へと徐々に近づいていくのではないでしょうか。
もちろん短歌がどうやって生まれるのかは、作者にしか分からない事ですが、そのような短歌の裏側を読み取ろうとすることも短歌の楽しみの一つだと私個人は思っています。
気になった点
厳密に読むと繋がっていない部分があって、そのために意識しないとそれぞれの文章が二つに分裂してしまう。違和感なく読めてしまうのも悪くはないとおもうけれど、表現には何かしら引っかかりが必要だと思う人には、この部分は変えてはいけないところなのかもしれない。
「飲み込んで」であれば、後に続く文章は引き起こされた結果を表している。そこには時間の流れが生まれている。ただ、これを飲み込んだとするなら、その世界全体の青さ自体を表現できているように思える。微妙な違いにも感じてしまうが、作者が世界をどのように取り扱いたいかによって、自然と言葉は変わってしまうのだ。
次は『野性歌壇 短歌鑑賞 2020年 1月号 加藤千恵 選 佳作 10首』に続きます。