野性歌壇 短歌鑑賞 2020年 1月号 特選 3首

 投稿歌人 八号坂唯一です。名前は「ただひと」です。「ゆいいつ」と読んでしまっても大丈夫です。

 今回は野性歌壇 特選 3首を鑑賞したいと思います。野性歌壇では加藤千恵さんと山田航さんが応募作の中から1~2作を特選として掲載しています。野性歌壇は見開き2ページの連載なのですが、特選作は右側のページに選者の簡単な評と共に掲載されます。左と右では短歌の作品数も短歌に使われる文字の大きさも違いますから、一目でどちらが優れている短歌であるか分かりやすい。
 特選で掲載されると後日、投稿時に入力した住所へステッカーが入った封筒が送られるので、雑誌を買っていなくても今月は特選だったのかと知らせてくれる便利なシステムになっています。私も、そのシステムで雑誌を読む前に特選掲載を知ったことがあります。

 短いとはいえ選者による評が付いているのに、なぜわざわざ私も短歌の鑑賞して文章にするのか。これは負け惜しみもありますが、選者が選んだからと言ってそのまま良い短歌であるのか、自分の目と頭で比較検討する必要があると思ったからです。

 まだ「小説野性時代2020年1月号」はありますか。もう一度、短歌を読み直して、まだ見えていなかった部分を触りに行きましょう。

 テーマ詠「絶滅した(もしくはしそうな)生き物」

2020年1月号 加藤千恵 選 特選 1首

 神奈川県 遠藤健人

 テーマ詠より使われたモチーフ『マンボウ』

マンボウ(英:Sunfish)は、フグ目マンボウ科マンボウ属に分類される魚類。
日本では地方名で、ウオノタユウ(瀬戸内海)、ウキ、ウキギ、ウキキ(浮木)、バンガ(以上は東北地方)、マンザイラク(神奈川県)、マンボウザメなどとも呼ばれる。
漢字文化圏では「翻車魚」「曼波魚」と表記される[2]。
(中略)
マンボウは異常に死にやすい生物というインターネット・ミーム(いわゆる、「マンボウは天国に一番近い生物」である)があるが、多くが虚偽か、特別弱いというわけではない[29][30]。(以下略)
マンボウ-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 なぜ「マンボウ」がモチーフなのだろうと思って調べてみたら、死にやすい生物としてのイメージがあるらしい。上記で引用しているWikipediaにて、マンボウはこの時、着水の衝撃で死に至る事がある。という文章が掲載されてから、そのようなイメージが一気に拡散されてしまったとされている。正確ではなくても周りに広まっているイメージを利用して、詠み手はこの短歌で別のイメージを生み出そうとしています。
 「快速急行」という名称は、JRでは「快速」と「急行」の列車種別が単独で存在しており料金体系も違うため、一緒にしてしまうと乗客が混乱してしまうため使われていない。なので私鉄利用者でなければ馴染みのない名称である。ただ、この短歌で使われているイメージはJRの快速と同様で、各駅停車と同じ運賃で停車駅数が少なく目的駅に速く着くという、速さを売りにした列車であるのは間違いない。
 詠み手はどこかで「マンボウ」をみているのだろうか。死にやすい「マンボウ」が些細なことで次々と死んでいってしまう。何もできずその光景を見るしかできない詠み手は、「快速急行」で移動する。「マンボウ」の死にゆく様子を見に行く前か、後かはこの短歌ではわからない。「マンボウ」の死に悲しい気持ちを抱えている詠み手に呼応しているのか、今日の「快速急行」は速度を上げているような気がする。また「マンボウ」が死ねば、この「快速急行」はさらに速くなってしまうのだろうか。
 実際は「マンボウ」の死という現実に詠み手の意識が集中され、本来感じていた「快速急行」の時間での意識とずれが生じているために、「速くなる」と錯覚しているのだろう。楽しい時間はあっという間という例の悲しい時間版だと思えば理解してもらえると思う。
 現実に起きたかのように短歌を読んでみて、もしかしたらこれは本当に現実に起きた短歌じゃないかと考えた。選者の 加藤千恵 の評では、「マンボウ」というのも、「速くなる快速急行」というのも象徴であり、と書いてあるが、評に割く文章が短かったとはいえ、正直に言って何を仰っているのか分からなかった。
 言葉を象徴で片付けていいのであれば、短歌はどのような言葉をぶつけても良くなり、短歌の完成形は歌人 佐々木あらら が作った『短歌自動生成装置「犬猿」(星野しずる)』になってしまう。人間が時間をかけて推敲して作る以上は、作者がなぜその言葉を選んだのかまで考えてみる必要がある。「マンボウ」にも「快速急行」にも、選ばれるための想像の切れ端があるはずだ。
 作者は神奈川県から投稿されているので、神奈川県の「快速急行」で調べてみると『小田急江ノ島線』が検索上位に上げられている。実際に『小田急江ノ島線』には「快速急行」は存在している。次に神奈川県の水族館の「マンボウ」を検索する。水族館を入れた理由は、マンボウの名を付けた飲食店が多く見つかってしまったからだ。
 この飲食店たちがつぶれていく様を「減ってゆく」と読み取ってもいいが各店提供される料理の種類が和洋中と雑多であり、わざわざ店名の「マンボウ」と限定する必要性を感じられなかったので、作者としてはやはり魚類の「マンボウ」を置いているのだと思う。話を戻す。
 水族館と「マンボウ」で調べてみると、神奈川県でも2009年頃に『新江ノ島水族館』、2019年では『横浜・八景島シーパラダイス』で展示されていたらしい。しかし、水族館での「マンボウ」の長期展示は難しいらしく、すぐに放流されるか、もしくは展示中に死んでしまい、どちらも短い期間の展示に終わっている。
 作者がここで生まれてずっと生活しているのか、ここに引っ越して来たのかは短歌では分からないが、少なくとも生活の範疇に「マンボウ」と「快速急行」があるのは確かだ。『新江ノ島水族館』の最寄駅は『小田急江ノ島線』片瀬江ノ島駅だが、この水族館を詠んだ短歌であるかは、この短歌だけは分からない。作者としてもこのように地域を決めてしまうのは、短歌自体のイメージを狭めてしまうのであまり快く思われてはないだろう。
 作者ではなく詠み手であれば、この現実は全国に広げることができる。もしかしたら、同じような状況を経験した人もいるだろう。それは「マンボウ」でなくてもいいし、「快速急行」でなくてもいい。この地球から自分に関係がある何かがなくなってしまうのは、その分だけ地球が軽くなっているのだ。そのとき地球の自転が速くなったように感じてしまうかもしれない。
 その分、地球に生まれている何かも考慮すべきだが、私を含め多くの人はある想像力が働いている時に、そのような別の想像力を同時に持てるようにはできていない。この短歌でも詠み手は「マンボウ」と「快速急行」との想像力に向けられていて、読み手もそれを分かったうえで読んでいるのだ。
 しかし「マンボウ」や「快速急行」という言葉は、その言葉でしかなく、この関係に想像力が見当たらないと思う人がいてもいい。その見当たらないと思われている短歌にも、補助線を引くことで見つけられるかもしれない。

 気になった点
 前の文章と後の文章の関連性が全く無いのが、この短歌のイメージを膨らませる要素となっているのだが、最後の「快速急行」という言葉が引っかかる。普通に急行列車でも快速列車でも問題はないはずで、その方が読み手には共感を与えられそうな気がするのだが、なぜ「快速急行」なのだろうか。
 おそらくはそれが作者の意識が短歌に混ざってしまう状態なのだと思うが、それを見抜く想像力が私には足りない。


2020年1月号 山田航 選 特選 2首

 埼玉県 雨月茄子春

 テーマ詠より使われたモチーフ『オキナワハマサンゴ』

オキナワハマサンゴ(Porites okinawensis Veron)はイシサンゴ目ハマサンゴ科ハマサンゴ属のサンゴの一種[1]。日本固有種[1]。
(中略)
日本固有種で千葉県館山市から沖縄県西表島にかけて分布[1][2]。ハマサンゴ属の中では最も広域に分布している[1]。 (以下略)
オキナワハマサンゴ-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 短歌を全てカタカナで書くことについては私の中で答えは出ていない。読み手としては読みやすい方が意図が伝わりやすいと思うのだが、この短歌ではそれを放棄してまで全てカタカナで書かれている。読み手は一文字ずつ拾いながら短歌を読むのだが、そこでようやく、この短歌が沖縄県名護市辺野古の新基地建設による埋め立てをテーマにしているのだと気づく。
 沖縄は米軍基地に発する事故や事件、貧困がいまだ解決の見えない問題として常に提言されているが、本土にいる人間にはあまり関心がない。2020年2月上旬現在のメディアの大きな関心は新型コロナウイルスの流行であり、本州の感染者数や政府の対応について絶えず情報を流している。土地の問題はやはり当事者でなければ真に迫ってこないのだろうか。私もネット上で沖縄の基地問題に関する資料を探して読もうと試みたが、歴史資料自体が膨大過ぎるために私の短歌鑑賞の域を越えてしまい断念した。
 この短歌は、「ボクラ」が「オキナワハマサンゴ」に「ワルカツタ」「サヨウナラ」とお別れを伝える文章になっている。この「オキナワハマサンゴ」には沖縄の辺野古に生息するサンゴ自体のモチーフと、沖縄それ自体を表す二つのモチーフが含まれている。それにより、一目で沖縄の基地問題の歴史と、現在行われている辺野古の埋め立て両方ともに「チンモク」し続けている「ボクラ」を、詠み手が進んで「オキナワハマサンゴ」に謝罪したことで、「ボクラ」の無自覚の悪を露呈させる仕組みになっている。
 単に自然破壊を詠む短歌であれば、「オキナワハマサンゴ」でなくても別の生物や植物を当てはめることも可能である。また沖縄の基地問題を詠む短歌であれば、全てカタカナにせず沖縄と基地や土地の言葉を含めた短歌にすればよい。しかし、それでは自然破壊と沖縄基地の二つの問題を同時に突きつける短歌にはなれない。自然破壊、沖縄基地、どちらも「ボクラ」には未だ他人事であるのだ。「オキナワハマサンゴ」は歴史と自然、二つの問題を「ボクラ」に想起させるモチーフになってしまった。
 しかし、この「ボクラ」とは一体誰をさしているのだろうか。詠み手と、我々詠み手であるならば、この全てカタカナで書かれた短歌に違和感を感じる人もいるだろう。僕たちは文章を全てカタカナで書いたりはしない。選者の 山田航 は、歌に記号性をもたせることで、絶妙に堅苦しさを回避した、とこの短歌を評しているが、短歌という表現に関わらず、記号性が読み手に与える印象というのは千差万別である。
 むしろ普通の文章よりも息苦しさ感じたり、何か作者の意図を感じて構えてしまう心理的作用を与えてしまう。堅苦しさを回避するのであれば、漢字ひらがなカタカナ交じりの現代の文章形態でいいのである。ここには確かに作者の意図があるが、それは堅苦しさを回避するよりも、読み手に対して流し読みされる抵抗としてであり、あえて読み手に印象付けるために文章の形態を変えたと言ってもいいかもしれない。
 作者の意図については、この短歌には書かれていないので、私には分からない。与えられた短歌を元に私の経験で想像するしかないが、このカタカナで作られた文章と、この「ワルカツタ」とあえて促音が大文字になっている部分から、これは昔の文章、主に電報を意識しているのではないかと予想する。
 現在では電報はあまり主流な通信手段ではなくなってしまったが、郵便よりも便せんや筆記具なでこちらで用意せずに簡便に相手に報せる手段として使われていた。昭和のドラマや小説であれば、チチキトク、サクラサク、などの家族の直筆の手紙ではない、無機質でありながらも切迫している電報が物語の大きなきっかけになる小道具として使われている。
 以前は電報に使われる文字がカタカナだけだった。そして、この短歌が指摘している歴史における負の問題である、カタカナで表記される「オキナワ」が、自然と先の戦争を連想してしまうのだ。この短歌で詠み手が指摘しているのは、現在の沖縄の辺野古の埋め立てについてなので、その切っ掛けとなった戦争にまで想像力をむけるのは穿ちすぎではある。
 しかし、この「ボクラ」が現在の本州の読み手たちだけではなく、終戦後から続く歴史的問題に「チンモク」して生きてきた過去の人々まで含めるのも可能である。そうして考えれば「オキナワハマサンゴ」も現在に突然存在した生物ではなく、終戦以前からその地に生息していたのであり、「オキワナ」に生きてきた人間の歴史と同様に「オキナワハマサンゴ」の歴史も等しく同じ時間が積み重なっているといえる。それがいま人間の都合で無くなろうとしているのだが。
 詠み手が電報という手段で「オキナワハマサンゴ」に別れを告げている。事態はそこまで逼迫しているのだろうか。手法としてはカタカナを使うことで記号性と表現力をもたせることができた。だが、この記号性を借りなければいけないこと、普通の文章では読み手には伝わらないという意図が、そのまま消えていく「オキナワハマサンゴ」に対する距離感になってしまっている。一方的に「ワルカツタ」と謝り、勝手に「サヨウナラ」としてお別れして、問題を終わらせてしまう人間の自然に対する都合の良さがこの短歌には表れている。
 この距離感はそのまま、戦後からの歴史に対する人々の距離と類似している。「オキナワハマサンゴ」と同様に、歴史の扱いに対して「チンモクヲゼトスル」のが今の人々の距離感なのであれば、延長線上にある未来はどのようなものが待っているのだろうか。埋め立てられ消えていく「オキナワハマサンゴ」とのお別れのように、来るべき時に「ワルカツタ」と謝るのは何に対して、誰が謝るのであろうか。

 気になった点
 社会詠では問題に対してどこまで近づいてよいのかという作者の煩悶がそのまま作品に表れてしまう。それ故に後で自作を読み返したときに、理解が足りていなかったり納得できない部分を見つけてしまい、強烈な怒りや戸惑い、悲しみや恥ずかしさを感じてしまう。
 これは誰かに評価されたという客観的な尺度ではなく、生み出した自分自身の経験から来てしまう問題なので、発表した自作を二度と読まないという人間である限りは必ずついてまわる問題だろう。
 この短歌の作者はこの未来から突き付けられる問題をどう回避したのだろうか。私ならどのように回避していくのだろうか。


 東京都 品川佳織

 テーマ詠より使われたモチーフ『トナカイ、ママ』

 トナカイ(アイヌ語: tunakkay、学名: Rangifer tarandus)は、哺乳綱鯨偶蹄目シカ科(シカ)トナカイ属の1種である。本種のみでトナカイ属を形成する。
 (中略)
 サンタクロースは、トナカイが曳く橇に乗るとされる。(「サンタクロースのトナカイたち」参照)ただし、当初はトナカイの頭数は一定せず、名前もなかった。(以下略)
トナカイ-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 短歌に関わらず全ての創作、いや、人が生み出すものには、その人が過去に経験してきたものごとの組み合わせや、思考の飛躍の跡が必ず存在する。新しいとされるものであっても創作者による蓄積の取捨選択という手が無ければただの過去の再生産でしかなく、また世の中にあふれる過去の作品らの認知状況によっても生み出された作品の新しさは変化してしまう。
 この短歌は選者の 山田航 が評しているように 穂村弘 の短歌の本歌取りのような形になっている。おそらく私の短歌鑑賞を読んでいる人であれば、穂村弘の名前を知っているであろう。そこまで世の中や界隈に認知されている作品や人物であれば、その過去の作品から影響を受けた作品を作ったとしても、むしろ界隈への理解度として評価される部分が大きい。もちろんその作品自体も良いものでなければならないのは言うまでもない。
 今回はテーマが絶滅しそうな生き物であるために「トナカイ」をまず先に思いつき、そこから穂村弘の短歌を借り、パパの対比として「ママ」を登場させるという流れになったと思われる。なぜ 穂村弘 の本歌取りであるかを 山田航 が想像したのかは、この短歌で詠まれている「ママ」がサンタクロースであったとしても短歌の意図は通じるのに、その要素をサンタクロースではなくあえて「トナカイ」と変えたところにある。
 ここに創作者の蓄積と取捨選択が見えるし、世の中の認知状況の変化も見て取ることもできる。子供が現実を知ってしまうクリスマスの真実は、サンタクロースだけではなく「トナカイ」にも影響しているし、その計画にはパパだけではなく「ママ」も共犯として参加しているのだ。昔では見えていなかったクリスマスの真実の別の視点を作者が見つけたのが、この短歌の現在における新しさなのだ。
 ただ、本歌取りで悩ましいのは読み手が本歌取りだと知らなければ、本歌と対比できずに短歌自体に分からない部分が出来てしまうところだろう。この短歌で言えば、なぜ「トナカイ」が「ママ」でなければならないのか、という疑問を穂村弘の短歌の本歌取りを知らなければうまく答えられない点にある。
 別に「ママ」がサンタクロースでもいいじゃないか、といった男女共同参画が叫ばれる現代の感覚との齟齬が生まれてしまうのは、本歌である穂村弘の短歌の発表時期、第2歌集の『ドライドライアイス』が発表された1992年では、サンタクロースがパパであるのがまだ世の中の当然の認識だったにすぎないからだ。
 本歌取りしたこの短歌ではその対比を作るために「トナカイ」と「ママ」を使っているから、そのまま本歌の時代性ごと引っ張ってくる格好になってしまっている。「トナカイも」という助詞の使い方で、サンタクロースの存在を想起させて、サンタクロースが不在である理由が別の短歌で既に書かれている、つまり本歌取りであると読み手に意識させようとしているが、逆に言えばこの短歌の本歌取りを知らなければ、パパはサンタクロースである、男は主役でなければならないと認識しているという、短絡的で不必要な想像を与えかねない部分にもなっている。
 しかし、山田航による本歌取りという評と実際の元となった短歌を掲載することにより、読み手にその不必要な想像力を与えてしまうのは抑えられている。本歌取りされた短歌が抱えている時代性について考察するのはまた別の話だが、その構図を読み手が知ることによって、短歌のどの部分が作者が発見した表現の差であり、新しい視点であるのかが分かりやすくなっている。
 ただ本歌取りを知らなくてもこの短歌は読める。詠み手である子供は同級生の子供かテレビ、あるいは絵本や書籍で教えられたのだろうか、そこにはサンタクロースが「空想上の生き物」ではなくパパだったと書かれていた、現実でよく見られるサンタクロースの正体設定に衝撃を受け、そのまま設定の対として、では「トナカイ」は「ママ」なのではないかと想像してしまう。この思考の流れは子供には自然なように見える。
 よって、実際は後の文章の「ママ」がパパや知らない人だったとしても問題や違和感はなく、詠み手である子供の家族環境と現実を知った状況によって「ママ」を「トナカイ」として選択したわけで、そこには男女共同参画といった問題意識は含まれていない。このように本歌取りを知らなくても、短絡的な想像をしなければ、現代でもなんら問題なく「トナカイ」が「ママ」になってしまった理由は説明できる。
 また本歌取りの短歌を含め、短歌で子供らしき詠み手が「空想上の人物」と形容することに違和感を持つ人もいると思う。これは読み手に子供が感じたであろう言葉にならない衝撃を、言葉に置き換えて表現したものであり、その変換作業は大人になった詠み手自身で行われている。
 現実では昔の思い出を振り返る時は、子供の時には知らなかったであろう様々な形容詞や固有名詞を用いて他者へ分かりやすく語られる。この短歌にもそのような時間の経過が子供の中で起きている。短歌を詠み終わった時に詠み手は子供に戻っているのか、あるいは大人になっているのかはこの短歌では分からない。実在の無い人物であるからこそ、このような急激な時間の変化も表現が可能であるが、単に大人になった詠み手がそのクリスマスの真実の衝撃を今の語彙で表現した、と読むことも可能である。
  最後に、本歌となった短歌ではサンタクロースの象徴として髭を扱い、それをとるとパパになった。この短歌では「トナカイ」の象徴が「ツノ」であり、それをとると「ママ」になった。どちらも顔や頭に着く変装具であり、どちらの詠み手も体ではなく顔の変化を意識している。普段見慣れないものが見慣れた顔に変化していく様は正体が身近な人である安心感よりも、不可能のように見えるものが、種や仕掛けのある手品だったという地続きな現実への不安感が勝ってしまうのだろう。
 いろいろな現実を知り子供から大人になる。とはいえ、大人になればそのような地続きの現実の中で、サンタクロースのような不可能に見えるものを自ら取捨選択しながら作り出すことができるのだから、現実を知るのはそこまで悪くはないのだ。

 気になった点
 本歌取りの構造になっているので、「ママ」に変えずとも本歌の句である、パパだったんだ、をそのまま持ってきても詠み手の意図は伝わるし、本歌取りの構造がよりはっきりすると思うが、そうなるとパパと「ママ」という本歌と対になる構造という作者の意図が見えなくなってしまう。
 どちらの意図を生かすかは作者の判断によるので難しい所だが、もし「トナカイ」がパパだったとしたら、ここに書かれていないサンタクロースは「ママ」を含め現実上の誰になってしまったのだろうかと考えるのも面白い。


 次は『野性歌壇 短歌鑑賞 2020年 2月号 山田航 選 佳作 10首』に続きます。

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