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言葉で理解し、言葉で誤解する

最近よく思うのは、自分の想いや考えを
表現することの大切さ。


表現って、方法はさまざまあって
このnoteも表現のひとつでもあるし


「実は、コレ“表現”のひとつでした!」みたいな
一見、“表現”とはなかなか認識されていないものも
表現のひとつであって。


その中でも
言葉にする・言語化・文章にする
ということは


わりと幼いころから
学んできたり
学びとまで認識していない
日常生活の中から
吸収してきていたりと


多くの方が
やっていることだと思うんです。
得意・不得意はおいておいて。


だから日常生活や社会において
同じ単語・言葉を使用していることによって
〔相手に伝わった。〕
と解するワケですが



ここには大きな落とし穴があって。



そのお互いが共有した単語・言語を
相手が
どう解釈しているか
どう理解しているか
どう捉えているか
で結局、話が変わってきてしまうんですよね。


これは、単語・言葉の解釈を越えて
他にも当てはまる落とし穴であり
『大前提』だと感じています。



だからこそ
自分が伝えたかった“りんご”(=単語・言葉)は



単語・言葉・音・意味は同じでも
相手が受け取った段階で
相手がイメージしている“リンゴ”になるので
まったく同じではない可能性がある。


この話、姿カタチのある“りんご”だから
そこまで大きくズレが生じないかもしれないけれど


これが抽象的なものや
情緒的なものであればあるほど
お互いに認識は変わっていって


各々の中で
その単語が浮遊して
そこからまた各々の世界が
創られていくのでしょう。


私はよく言葉の使い方を褒められたり
表現が豊かだと言っていただいたりするのですが


それってなんでかなーと
ちょっと考えてみたんです。


私自身、言葉にして伝えることを
とても大切にしていて
心を込めて日頃から
発するようにしています。


それと同時に
相手にとってこの言葉・表現は
相手の経験・知識・エゴなどによって
違うものにもなりうるということも
承知した上で
言葉を選んだりしていることもあるんですよね。


同じ言語を話していると
辞書に書かれている意味で
みなが等しく同じ理解をしている、
と思いがちですが


そこには人それぞれの背景や
そもそものSPECが違うので


似て非なるモノ・ニュアンスで
伝わりあっている
実はギリギリな感じなんだと思います。


だからこそ
伝わった感覚が伴ったり
意思疎通が図れたあのエナジーは
とても喜ばしいものなんだろうなとも。


とはいえ
相手が言わんとしていることって
実は言葉・単語だけで
お互い理解している訳でもなく


関係性やその場の空気、エナジー
はたまた前後の脈絡などから
総合的に判断されていたりもするので
言葉・単語がすべてではない。
とも思います。


そもそもこの話を
言葉・文章で伝えようとしているあたりが
私的には滑稽なのですが
あえてしたためてみました。


結局は
言葉を理解しようとすればするほど
言葉で誤解が生じる。


そしてその話を
言葉で表現しようとすればするほど
言葉のもつパラドックスに
愛おしさを感じてくる。


いびつっていうとアレだけど
でもその不完全な感じや
いびつさが愛おしかったり
クセになったりするのもまた事実。

今日も最後まで
お読みくださり、ありがとうございました。

今日も素敵な時間を♡

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