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謙虚さをいつも持ち合わせていたい

時々「読書家だ」と言われることがある。
読書家と言えるほどそんなに本は読んでいないので恐縮してしまう。

だけど、こうやって文章を稚拙ながらに書いていたりするわたしにとっては、そういう印象を持っていただけるのは光栄なことで。

欲を言えば、
「宮沢賢治って感じがする」と言われたい。
岩手の花巻には一度は行きたい。


以前、三島由紀夫の話になったことがあった。
作品自体は読んだことがなくても、名前を知っている人は多いと思う。

親しくなればなるほど礼節をわきまえるのが理想の人間関係である。

三島由紀夫

礼節は大事だ。
「親しくなればなるほど」というのは、その通りだと思う。


親しくなればなるほど、相手を知ったような気になって、大きい態度になる人が時々いる。


『群盲象を評す』だということに気づかない。


そういう人に限って余計なひとことだったり、余計なお世話だということが多いように感じる。


わたしは、そういう人が苦手。
なので、自分も気をつけたいところ。


ソクラテスの『無知の知』という言葉もある。

『わかる』という傲慢さ
『わからないこともある』という謙虚さ
どちらが前提にあるかで印象は違ってくる。


わたしは「あー、なんとなくわかるなぁ」の前に絵が浮かぶ。
わからないときは浮かばない。


ひとつの判断基準のようなものだけど、必ずしも正解ではないので、確認したりすることが大事だと思ってる。


だけどそれを描くのが楽しい。
ただ、時々アニメーションのように動く絵もあるから、どこでどう切り取ろうか迷うときもある。



そもそも人のすべてを知る、理解するなんて不可能だと思う。
どんなに長い付き合いでも、親でもパートナーでも子どもでも。

なのに、知った気になる。

知ろうとする姿勢は大事だけど。


そして、すべてを理解することが不可能だから、わたしは孤独を感じる。

だけどその孤独は、人間として自立することであり、自分を知ること。
心や感覚、自分の本音を知ることだとも思う。


たとえば、わたしは絵を描く人でもあるけれど。

自分の表現したいものは、誰かに頼んで描いてもらうものではないし、

悩んで悶えて、何回もやり直して描いても納得いくものができなかったりする。


たとえ周りが、綺麗、いいね、すごいって言ってくれたとしても。


そういう意味でわたしは孤独だし、

自分の人生を描いていくことも、同じだと思う。


わかった気になられて、変な解釈が入って、想像が膨らんで、そんな自分に酔って。

そういう相手のエゴは相手本位の考え方によって、『わたし』が固定化されてしまうように思える。



わたしは『共感能力が高い』と言われる。

だからこそ、気をつけないといけないことがたくさんある。
そう思えなくても自覚しないと失敗する。
そういう意味で、変な謙遜もいらないなと思うけれど。


情動的に共感してしまうと、見るべきものを見落とすことがある。
エゴも出てくるし、いつもならできていたことができなくなったりもする。

『すべてではない』ということを忘れて、点だけで相手を見てしまいそうになる。


だけど、言語化できないところを本やSNSなどで見かけたりしたときの、
「これこれ!これが言いたかったの」って共感したり、共感してもらえるのはすごく嬉しかったりする。


共感と理解。
時々考えては、割とめんどくさい人になってしまう。


どちらかというと、わたしは共感より理解されたいのだと思う。

『わたし』を否定されたくたい。


そのために必死になる必要はないと思うけど。


わたしが見たもの、聴いたもの、五感で感じたもの、想像、妄想、そのすべてをできることなら言葉にして残したい。

なんのため?と聞かれたらわからない。

その思いはずっと長いことある。
だから書くのだけど、すべてを理解することはできないのと同じように、すべてを書くこともまた難しい。


このあたりは昨日の記事とも重なってくる。

木を木と呼ばないと
私は木すら書けない
木を木と呼んでしまうと
私は木しか書けない

でも木は
いつも木という言葉以上のものだ
或る朝私がほんとうに木に触れたことは
永遠の謎なのだ

谷川俊太郎

言葉って難しい。
言葉を探しても、ピッタリ当てはまるものがなかなか見つからなかったり。

『共感と距離感の練習』小沼理

これから読む1冊。
読み終わる頃、わたしは何を感じているだろう。

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