ピカソの真作とモネの贋作
ほぼ日手帳の昨日(7月12日)のページに、日記でも書くかとデイリーページをめくったら「日々の言葉」欄にこんな言葉がありました。
作品を前にした感動は本物か。そのことは。真贋とは別個の問題。
そこに意識的でいられたら、目の前の絵画というものを、
ファン・ゴッホだから、モネだから、何百億だからじゃなくて、
もっともっと、楽しめるんじゃないかと思います。
――圀府寺司さんが『ゴッホの贋作を見て覚えた感動は本物か。』の中で
ちょうど国立西洋美術館展で開催されていた「自然と人のダイアローグ」でゴッホやモネの絵画を見た日のページにこんなことが書いてあったものだからものすごく運命を感じてしまいました。
で。運命感じたついでに折角なので考えてみました。
「自然と人のダイアローグ」で見た、モネの「セーヌ河の朝」。シニャックの「サン=トロペの港」。ルノアールの「木かげ」。その他諸々、一目見て「うわ~! いいなあ!」と胸がときめいた絵画たち。
あれらが全て「実はこれ、贋作でした!」といわれたら。「実はモネでもシニャックでも、ルノアールでもない、無名の画家が作った贋作でした」といわれたら。私があの絵を前にして抱いた「うわ! なにこの絵! めっちゃいい! 好き!!」と胸がときめいたあの感情は失せてしまうのだろうか。「あの胸のときめきを返せ!」といいたくなるだろうか。
そんなことを考えたのですが、ほぼ100%、それはないんじゃないかなあと。あの絵を描いたのがモネだろうが誰だろうが、絵を見たとき「うわ~、この絵好き! ほしい!(!?)」とわくわくした気持ちは変わらないと自信を持っていえる気がします。
なんだったら、展示されていた絵画の中でも、トップクラスに感動した「ブローニュ=シュル=メールの月光」なんて、画家の名前(テオ・ファン・レイセルベルヘ)見ても、どこの誰で、他に何を描いた画家かなんてさっぱりわからなかったですからね。それでもあの絵を見た瞬間「すげぇ!!(語彙消失)」と感動しましたからね。
逆に。この展示のチケットで国立西洋美術館の常設展も入れると聞き、常設展にも入ってみました。そしてそこで生まれて初めて本物のピカソの絵を見ることができたのです。ピカソです。かの有名なピカソ。
素人には「何描いてるのかよくわからない」「絵が描けない俺でも描けそう」といわれがちなピカソですが、実物を見ればその考えも改まるかもしれない。本物を見ることで良さがわかるかもしれない! と思ったのですが。やっぱわかんないんだな、これが。
しいていうなら、私にとって意味がよくわからないあの絵、ちゃんとした知識や技術がないと描けないものなんだろうなということはわかります。絵が描けない人があれと同じだけのものを描けといわれても、あそこまでのものは描けないと思います。
けれど、今まで聞いたことがない画家が描いた「ブローニュ=シュル=メールの月光」を見たときと同じように「うわあ! やっぱピカソってすごいな!!」という感動があったかといわれたら、まあ……なかったよね……。
同じ「何描いてんのかよく分からん」系の絵画(?)でも、カンディンスキーの「小さな世界」(これは常設展ではなく「自然と人のダイアローグ」に展示されていた)はまだ「なんかよくわからんけど可愛い」ぐらいの心の揺れ動きはあったので、何描いてるかわかるものしか感動しないとかではない……はず……。
なので、タイトルに戻ると、もしも「ピカソの真作と、モネの『セーヌ河の朝』の贋作、どっちか好きな方をあげる」といわれたら、私は絶対に後者を選びます。
それは美術の知識がないからなのかもしれません。絵画を鑑賞する上では、ピカソの絵を見て、その素晴らしさを感じ取れるぐらい深い知識があった方がいいのかもしれません。でも「誰が描いたかはどうでもよくて、自分が好きかどうか」で絵を見て感動できるだけの感性が自分の中にあるのは、結構嬉しいことだなあと思いました。
……まあ「ピカソの真作よりモネの贋作がほしい」というのはあくまで「自分の手元に置く」ことを前提にした話であって「ピカソの真作とモネの贋作、どっちか好きな方あげるよ。もらった後は売るなりなんなりしていいよ」と言われたら、絶対ピカソの真作選んで然るべきところに売りますけど。
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最後に、展示されている絵画の一部の写真を撮ったのでアップしてみる。
※一部の作品を除き、展示作品は個人利用の範囲で写真撮影が可能です。
セーヌ河の朝↓
この絵、欲しいな~。この絵を飾って似合う家に住みたいな~って思いながら見てた(いろいろと無理がある)
ブローニュ=シュル=メールの月光↓
近くで見たらただの点の集まりなのに、遠くから見ると幻想的な月夜の風景なのを見て感動した気持ちは、真作だろうが贋作だろうが変わらないと思います。