【短編ホラー】招く手は
あれはつい十日程前。
吐き出す息は白く、肌を突き刺すような寒さの時期だと言うのに、随分と季節外れのどしゃ降りの雨の日。
曇天から降り注ぐ雨粒が窓を叩く様子を眺めつつ、デスクに向かって溜息をこぼしていた午後の事だった。
「疲れてるのか?」
ふと、背後を通り過ぎる同僚のTが心配していると滲み出た声で話しかけてきた。
疲れていると言えば疲れている。ここ数日、仕事がどうしてか片付かない。
それに、集中しているようでしていないのか、全く仕事の記憶が断片的で、昨日まで何をしていたのか薄らとしか覚えていない。
そんな事をTに話すと、彼は呆れた様子で笑いながら言った。
「いやいや、そりゃ疲れだろうよ。新年早々休みボケも大概にしとけよ!」
肩を叩かれ、思わずデスクに頭突きしそうになるのを堪え、自分のデスクに戻っていく彼の背中へ視線を向ける。
その時、はっきりと見えたのだ。
彼の背中。真っ白なワイシャツのちょうど心臓の位置だろうその位置に、何やら黒いシミのような掌程の何かが貼り着くように浮かび上がっていたのが。
なんだと、一瞬にして思考が鷲掴みにされ強制的にそのシミのような何かに意識は釘付けにされ、じっと見つめて気付いた。
あれは、手だ。
手の形をしたそのシミが一体何なのかは分からない。だが、私やTが働くこのオフィスにあって、あんな汚れが着くような事はそうそうないし、意識的に何か汚れるような物を擦り付けたり、ぶつけたりしない限りは背中のその場所が汚れるなんておかしいんじゃないかと思って見ていた。
すると、その黒い手が、動いたように見えたんだ。
歩いているし、汚れだとしたらシャツが揺れれば形を変えるだろうが、私が見た動きはそんなちょっとした動きじゃない。
明らかに、Tの背中から私に対して手招きでもするかのように、ゆっくりと一度だけ動いて。
Tがデスクに到着し、座ろうかと言うタイミングで、何も無かったようにすうっと消えていったのだ。
その手が何なのかは未だに分からない。
だが、今日になって私とTの間で何か不思議な力が働いていたのかと、ふとその記憶が蘇ると共に思ってしまった。
私とTの2人で営業先へ向かう車。
その車が、なんでもない普通の交差点を青信号に従って走り抜けようとした時。
突如としてとてつもない衝撃と、激しい衝突音が耳を貫き全身を襲い、私達は大型トラックとの衝突事故に遭い。
車の下敷きになった私は途切れ途切れの記憶の中で一つだけ覚えている光景がある。
私の隣に乗っていたはずのTは、事故と同時に何故か車から投げ出されていて。
下敷きになった私を助けようと、よろめきながら歩いて来る彼に、無惨にも更にもう一台の普通車が突っ込んできて、彼を轢いていったのを。
あの手は、彼一人だけでは可哀想だと、何かが死を招く手だったのかもしれない。
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