【短編小説】白い野薔薇
あれは夢だったのかもしれない。
だが、たった一度、遭遇して以来、私の全てを掴んで離さない記憶が、今も私を突き動かしている。
あれは忘れもしない、去年の冬の終わり。
私の趣味ではあるが、月に一度は必ず行っている、森の調査と称した単なる散歩をしていた日。
その日は雨だった。冬の終わりを告げるかのように蕾をつけた梅の花が咲こうかと言うほどに膨らんでいたその日。
随分と静かに、それでいて決して弱くは無い雨が降る中、私は森へと入っていったのだ。
普段の仕事に疲れ、暗い雲から降り注ぐ雨から少しばかり気分転換したかったのもあるが、その日は何故か森に入らねばならない気分になっていた。
まだまだ寒いその時期に、防寒具を身につけ、雨の降る中森へと入って。
毎月歩いている小道をキョロキョロと見渡しながら、危険はなかろうと安易に思いながら歩いていく。
1時間ほど森の中を散策した頃。それくらい歩けば辿り着く森の中の拓けた小さな空間に足を踏み入れた。
そこに辿り着いた時、差し込む太陽の柔らかな陽射しを浴びて、その広場だけが森の中の鬱蒼とした景色から隔離されたように柔らかく穏やかな雰囲気に満ち満ちている光景が目に飛び込んで来た。
雨は止んだんだと思い、ずっと歩いていたのもあって濡れてしまった上着を脱いで、近くの枝に適当に干すと、広場の中心あたりにある倒れた木の幹に腰掛けて一息ついていた時だった。
「・・・もし、どちらからいらしたのです?」
ふと、背後から聞こえるか細い女性の声。思わず振り返るとそこに居たのは真っ白なドレスを身に纏った長い黒髪が印象的なこの世の者とは思えない綺麗な女性だった。
「驚かせてしまったかしら。人がここに居るのが珍しくて。」
驚いて返答しない私を見て、女性は口元に手を当てながら静かに笑い、そう言っていた。
「は、いや、これは失礼!あまりに綺麗なもので驚いてしまい・・・。」
「あらあら、驚いてる割にはご冗談が言えるようですが?」
「冗談などと!本心ですよ!」
そんなやり取りをしつつ、静かに笑うその女性とそこでどれくらい話しただろう。気付けば差し込んでいた陽射しはすっかり陰り、辺りは暗くなり始めていた。
毎月来るその森の中で人に会ったのも、それまで生きてきて彼女ほどの綺麗な人に会ったこともなかった私には、とてつもなく楽しく幻想的な時間だった。
だが、終わりは突然にやってくるものだ。
「・・・暗くなって参りましたね。そろそろ私、帰らなければ。」
「そうですか・・・。楽しいひと時はあっという間ですね。」
初めてお会いしたというのに、私は彼女に一目惚れし、陶酔してしまっていたのかもしれない。
そんなことを呟くと、彼女は困ったように笑い、頭へとゆっくり手を伸ばした。
「せめて、こちらをお持ちになって。私もとても楽しい時間でした。願わくば、貴方が元気なうちにもう一度お会い出来るように、それを目印に・・・。」
手渡されたのは、彼女の耳元に添えられていた一輪の白い薔薇。
「私に会いたくなったら、会えると思うなら、その野薔薇を持って、またこちらにいらしてください・・・。願いが強ければ、会えるでしょう・・・。」
私の返答も聞かず、言葉も聞かず、その女性は森の中へと消えていった。
あれから5年、野薔薇を持って訪れても彼女に会えたことは一度も無い。
死ぬ前にもう一度、私に小さな希望をくれた彼女に、会いたいだけなのに。