憤りを感じた話。
「最近憤ったこと、ある?」という問いを投げられました。私は彼から畏れ多くも(頼んでもいない)就活のアドバイスを賜っている最中で、「憤りを感じたこと」というのは就活でよく問われる質問なのだそうです。
私は「面接官でもないやつに偉そうにそんな質問されるとか今まさに憤りだわ」と心の中で毒づきながら、「うーん、門限とかですかね」と適当に答えました。案の定、「もっとはちさんの人柄がでる回答じゃなきゃダメだよ」とのありがたいお言葉を頂戴しました。
自己分析に基づくエピソードを咄嗟に話せないと、彼が内定をもらったような一流企業には受からないそうです。street smartがビジネスの世界では大切だよ?本でお勉強できるだけじゃだめだよ?と言われました。
「外銀の内定程度ですげーマウント取ってくるじゃん、うぜえ」と思いました。
彼は、この時期に就活の基礎が出来ていない私を心底馬鹿にしていました。ごもっともだと思います。私が就活のしの字も理解していないことを汲み取った上で、完全勝利のために「憤ったこと」を聞いてきたのです。
でも、「知らねーよ」と思いました。知らないことで馬鹿にされるのってフェアじゃないと思いました。就活を一年してきてその価値観を学んだ彼が、その遡上に私を載せて馬鹿にする。ズルだよ!と思いました。
その潔癖さが私の欠点のひとつだと思います。
思えば、幼いころから潔癖でした。
中学受験はズルだと思っていたし、塾に行くのも課金だからズル。人より多くもらったお小遣いもズル。先生に媚を売るのもズル。同じ立場で闘ってほしい、最もフェアな状況で勝ちたいと常々思ってきました。
きっと、私がズルだと感じることは、これからはズルでないのです。どんどん、総合力で判断されるようになる。フェアな状況なんて用意されない。どんな知識があるのか、どれくらいお金を持っているのか、どんな人と仲がいいのか、その背景まで含め全て私。
こわいなあ。
馬鹿にされない人になりたい。
何かが足りなくても、その人が大切に思う基準を満たしていなくても、せめて馬鹿にされないくらいに聡明でありたいと思います。聡明さを価値としない人も認められるくらいの、聡明さがほしい。
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