ピーラーはふまじめか?
野菜の皮を剥くとき、ピーラーを使わない。人参もじゃが芋も、包丁の刃を横に倒し親指を添えて剥く。
包丁使いが上手いわけではないし、ピーラーで怪我したトラウマがあるわけでもない。
時間をかけて包丁で剥く方が、まじめな感じがして気分がいいのだ。
これは、母がつねづね「包丁で剥きなさい」と指摘するから生じた性だと思う。曰く、「ピーラーでせかせか剥くと皮が厚くなって勿体ない」のだそうだ。
母は特段ケチなわけではないけれど、家庭の維持に対してとてもまじめである。
・お風呂の残り湯はバケツで汲んで洗濯に使う
・雑巾は使わなくなったタオルから手作りする
・旬のものを食卓に並べる
・夏には毎年朝顔を植える
・『家庭の医学』を読み込む
・数日家を空けるときは常備菜を作っておく
…エトセトラ。
義務ではないがやった方がよいことをきちんとまじめにこなしていく。
母は教育についてもとてもまじめであった。母は私をまじめに愛した。
小学生のとき世の中の物事は折り目ただしくまじめとふまじめに分けられた。
教育テレビ(まじめ)セーラームーン(ふまじめ)
ボードゲーム(まじめ)テレビゲーム(ふまじめ)
美術館や博物館(まじめ)原宿(ふまじめ)
食事(まじめ)おやつ(ふまじめ)
優先するのはまじめな順に学校、習い事、家族、最後に友達。
まじめ、ふまじめの基準をすり抜けたのは本だった。
星新一、森絵都、伊藤たかみ、瀬尾まいこ、重松清、石田衣良……。本にはまじめもふまじめも書いてあった。
図書館の「ヤングアダルト」の棚にある日本人作家の本は読みつくしたので、そろそろ大人の棚に行ってみようと、村上龍『シックスティーナイン』を借りてきたとき。たしか、小学五年生だったと思う。
母は「子どものうちは世界の名作文学を読んだ方がいいのよ」とふまじめな村上龍を取り上げまじめな『海底二万マイル』を渡した。
まじめな私は抵抗もせず読書をやめた。
母は、「手の離しどき」についてもまじめであったから、過保護な教育ママであったことは一度もない。門限はないし、少しはお小遣いもくれた。進路も私に選ばせた。まじめに、「あなたが好きなことをして生きなさい」と繰り返し言う。
でも、私は、あんまり、もう、「好き」やそういう気持ちを一番に生きるのは難しいんだろうと思う。まじめ—ふまじめ(よしーあし、ほんとう—にせもの)の二項対立は価値観として沁みついて、未だに私は大根を包丁で剥く。
先日、「妹・弟が優等生すぎるためにグレた兄」というようなテレビ番組が放送されていた。
それを観た母は「これはちがうよ」と主張した。「お兄ちゃんがこんなのだから妹・弟はまじめになるしかなかったんだよ」と。
伯母(つまり母の姉)がお転婆で、高校のころからタバコを吸ったり、バイクに二人乗りして駆け落ちしたりしてしまうような人だったらしい。それゆえ末っ子の母は、両親の期待を一身に受け、まじめに丁寧に育てられてきた。
そうか、まじめであることが心地よいと感じていそうな母もまた、少なからずいきぐるしさを伴ってまじめだったのか。
つまり、母はまじめにならざるを得ないところに生まれたがゆえにまじめであり、その母のもとに生まれた私は包丁で里芋を剥くというだけなのである。
縛ろうと思わずとも人は人を縛るし、愛は決してそれを解決しない。母も私も決して被害者ではなかろうし、しかし自由でもない。
そういえば、リンゴをピーラーで剥く人って見たことないなあ。
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