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原田マハ「リボルバー」読了


初めはゴッホの物語だと思っていた。

ゴッホの有名な「ひまわり」の絵画。
様々な黄色の絵の具を巧みに使用し、ハッとさせられる。
タブローいっぱいに黄色が使用されているのにも関わらずくどくないあの絵はどんな人が描いているのだろう。
小さい頃に思った。
大人になった私は、それがゴッホの絵画だと知った。
それからというものの、ゴッホを常に私は目で追うようになった。
まるで恋に落ちるかのような、そんな気分だった。

本が大好きな私は気分転換に職場から家の帰路途中にある本屋さんに寄った。
そこで目にした「ひまわり」に釘付けになった。
原田マハの小説「リボルバー」だった。
帯には「誰が引き金を引いたのか?」
私が買うには十分すぎるくらいの謳い文句だった。
ゴッホ、リボルバー、誰が、引き金。

有名な話だが、ゴッホはピストルで自殺を図り、死んだとされている。
お腹を撃ったのが即死にはならなかった原因だと言われているが。
ずっと私はその話に疑問を抱いていた。
あの人が、自ら引き金を引いて自殺をするだろうか。
あの絵を描く人が。
ゴッホが晩年に過ごしたと言われている、オーヴェール=シュル=オワーズ時代の作品はどれも生き生きとしているように私は感じていたから。
こんなにも、生き生きと、絵画を描き、タブローを愛した人が。
でも、史実を見ればゴッホ自身が自殺したとしか思えないのもまた事実なのであって。
それでも、私はどこか引っかかっていた。

原田マハ「リボルバー」の帯を見た時に頭から稲妻が落ちたような感覚になり、動くことができなかった。
私は、これを読まずにはいられない。
これが事実とは異なるとしても、それでも私がひっかかっていたものを解いてくれる何かがきっとそこには絶対にある。
そう思った。

読んでいくと、ゴッホ視点の物語ではないのがわかった。
そうか、これはゴーギャンの物語なのか。

ゴーギャンはゴッホのアルル時代、共同生活を過ごした戦友とも呼べる画家だ。
アルル時代を経てゴッホが感じたこと、ゴーギャンが感じたこと。
あの共同生活がゴッホとゴーギャンの人生の分岐だったこと。
小説を読み進めていくと感じるゴッホとゴーギャン。
世界的に有名な名絵師ではなく、生身の人間としての二人。
息遣い、風景、匂い、温度、質感。全てが感じ取れる文体。
彼らは生きていた。いや、生きているんだ。この本の中で。
人間、ゴッホとゴーギャンとして。

小説を読み終わったときの余韻や、なんとも言えない清々しさ。
悲しく、切なく、儚い二人の物語。
それは確かにここに存在していたのだと嬉しくなった。
過去は変えられないし、歴史は歴史のままだ。
史料がある限り、全てを否定も出来なければ、変えることなんてできるはずもない。
だが、私が今まで感じていた違和感をスッと取り除いてくれた。
涙が止まらなかった。
それは、悲しみにも、また喜びにも似た、なんだか複雑なもの。
心は軽いのに、体は重く、頭はぐるぐるで涙は色々な感情の成分が混ざり合ってなんとも言えない液体としてこぼれ落ちる。

久しぶりに良作に出会えた喜びと、ゴッホとゴーギャンの気持ちを受け止めた辛さで私がバラバラになって塵と消えてしまうのではないだろうかと錯覚してしまうほどだった。

ゴッホを描いた作品でもう一つ私が好きな作品がある。
「さよならソルシエ」だ。
これは、ゴッホの弟 テオの物語だ。

ゴッホは魅力的で、ゴッホに触れると魅了され、ゴッホの引力に飲まれていく。
フィンセント・ファン・ゴッホ。
ゴッホを取り巻く全ての人にもまた人生があり、また悲劇があり、また喜劇がある。
ゴッホは死んでもなお、私たちを引き込んで大きくなるのだ。

今月の18日(土)〜東京都美術館で「ゴッホ展──響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」が開催される。
各地にも巡るようだ。
ゴッホ。あなたはいつまでも朽ちる事なく生き続けていくのですね。




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