意思を吹き込む。
ある仕事中の昼休みのこと。何気なく財布の整理をしていると、運転免許証(以下、免許証)が目に入った。
正確にいうと、免許証の裏面に目が留まった。
まだ免許証を持っていない人は、知らないかも知れないが、免許証の裏面には、「備考欄」といって、住所や氏名が変わったときに、変更内容を書く枠がある。
それとは別に、もう1つ。
「臓器提供に関する意思表示」を確認する内容が書かれている。
内容は以下の通り。
以下の部分を使用して臓器提供に関する意思を表示することができます(記入は自由です。)。1から3までのいずれかの番号を○で囲んでください。
1.私は、脳死後及び心臓が停止した死後のいずれでも、移植のために臓器を提供します。
2.私は、心臓が停止した死後に限り、移植のために臓器を提供します。
3.私は、臓器を提供しません。
(1又は2を選んだ方で、提供したくない臓器があれば、×をつけてください。)
【心臓・肺・肝臓・じん臓・すい臓・小腸・眼球】
〔特記欄: 〕
<自筆署名>
<署名年月日>
しばらくその文字を眺め、あれこれ想像した後、私はその場でドナーカードに、自分の意思を記入した。
職場の人から「何をしているの?」と聞かれ、そのまま伝えると、「よくこんなタイミングで書けるね…。」と苦笑いをされた。
確かに自分でも、少々不謹慎なのかなぁ。とは思った。ではいつだったら、心穏やかに、このカードを記入できるだろう。私は、その日をイメージができない。
そしてもう1つ、考えが浮かんだ。今日この日の帰り道に、もしものことがあったら、私は書かなかったことを、きっと後悔するだろう。
そう思った私は、私の「今」の意思を、書くことに決めた。自分自身が脳死になった状態を具体的にイメージすると、胸が苦しくなり涙ぐむこともあったが、あまり時間を掛けず記入し、免許証を財布の中にしまった。
なぜ私は「後悔する」と思ったのか。
それには2つの理由がある。
1つ目は、自分の意思が残せないから。当然だが、死んでしまった後に、自分の意思を伝えたくても伝えられない。「実は私、こうしたかったんだぁ。」と思っていても、伝える術がない。
何も書かないということは「意思がない」と判断されてしまう。今の私には意思があるから、それだけは嫌だと思った。
2つ目は、残された家族のことが気になったから。私がドナーカードに意思を書かなかったことにより、きっと家族はぶつかり合う。そう思った。(過去に1度、家族会議で意見がぶつかり合った経験がある)
私は幼い頃、ちょっと転んだだけで、近所中に響き渡るくらい大声で泣き叫んでいた。今も病院が怖くて、できれば病院は行きたくない。
そのことを知っている両親は、『春奈は昔から痛いのは苦手だから、ドナーへの提供は望んでいないと思う…。』と思うかも知れない。
兄弟は『春奈は人のために尽くしたい。そんなことを言っていた。ドナー提供を望んでいると思う』と思うかも知れない。
夫は、何日、何ヶ月掛かっても、この事実を受け入れられるような気がしない。『どんなカタチでも生きていて欲しい。』と思うかも知れない。
全て私の想像だから、実際にその場になってみないと分からない。けれども、残された家族も、今の私と同じように、生きていた頃の私を想像して、答えを出すしかないのだ。だけどそれは、それぞれのフィルター越しの「私」であって、私の意思ではない。
私は、自分が死んだ後、つらくて苦しんでいる家族が、さらに悲しみ、ぶつかるなんてことは、絶対にして欲しくない。できれば支え合い、苦しみを分け合い、1日でも早く笑顔になってほしい。だから、もしもの時に「春奈がそれを望んでいるのなら…。」と私の意思を基準に、判断してほしい。
そう思って、私はドナーカードを記入した。
「今、元気なのに縁起でもない。」「バカなことを言って。」
そんな批判の声もあった。だけど、生きているあいだしか、自分の言葉で伝えることはできないし、大切な人と語らうことはできない。だから、大切な人と「死」について向き合うことを、タブーにはしたくない。
本音を言うと、元気な30代前半の今、「死」なんて全く想像できないし、死ぬのは怖い。けれども、「死」を意識することで、生き方を見つめ直すことができる。生きるとは、一歩一歩「死」へ向かっていることである。
「生」が有限を知ることで、日々を大切に生きられる。たった数分のできごとだけれど、沢山考えた数分間でもあった。
このブログは、正式な書き置きにはならない。だけど私の意思を残したく、綴ってみました。