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書くのがしんどい。

「書きたいのに、うまく言葉を紡げない…」

最近の私は、ずっとこんな調子だった。書いては消し。また書いては消し。時間を掛けて書くものの、いざ読み返せば、何が言いたいのか、自分でもわからなくなる。そして記事を削除する始末。

今からちょうど1年前。とあるセミナーをきっかけに、文の魅力に引き込まれ、自分なりに発信を続けてきた。あるときは、パソコンの前では「ウーン、ウーン」とうなりながら、キーボードをたたく。またあるときは、書き上げた文章を、何度も何度も修正する。

そんな風に、この1年、文の練習をやり続けたはずのに、文章力が上がった実感がほとんどない。「続けていて意味があるのだろうか」「noteを書くのがしんどい」。そんな気持ちになりかけていたとき、一冊の本にであった。

本を読んで、衝撃を受けた。頭をガツンと殴られたようだった。なぜなら私は、「Bad」の項目にすべて該当するからだ。(Twitter画像参考)あたかも自分のことを言われているようだった。

そう私は。自意識過剰になっていた。

そういえば。「あのブログよかったよ」と言われた次のブログは、筆が進まない。「ブログ見ているよ」と言われると、意識してしまう。意識するほどに、noteを書くハードルが、高くなる感覚だった。記憶を記録するのが楽しくて続けていたnoteが、最近は少しおっくうに感じていた。

だけど、決して誰かのせいではなく、自分が作り上げた「見られている」という幻想が、そうさせていた。自分で見えない敵(意識)を作り上げ、自らを追い込み、自滅する…。(ああ…。恥ずかしい…)

そんな自分に、声を大にして言いたい。

私の文に期待しているのは、他でもない。自分自身なのだ。

それに気づき、何だか気がラクになってきた。意識を変えただけで、自然と言葉が、湯水のように溢れ出てくる。

そっか。私は文を書きたかったんだ。

私はパソコンを閉じ、ノートを開いた。そして頭に浮かんだ言葉を自由につづった。

なぜ文を書きたいのか。それは文が自分自身だからだ。

書くのも自分。考えるのも自分。意識するのも、また自分。

それらをカタチにして、表現していく。ないものがカタチになっていく。それがなにより尊い。

だから私は、悩んでも、止まっても、書き続けたいのだと思う。

現在フレッシュな状態なので、今のうち、自意識過剰な自分へ手紙を書いておく。

自意識過剰な永田春奈さんへ

やあ。これを見返しているということは、また君は自意識過剰になったということだね。はっはっは!!大体君はわかりやすいんだよ。読まれたらうれしい。「スキ」が付いたらうれしい。「次に書く文は、今回よりも、よい文章を書くぞ!」。なーんて、張り切っているんじゃないんだろうなぁ?図星だろ?

そんなときの君のクセは、一行一行、きれいに書こうとする。考えながら書こうする。誰かや何かを意識している。この3つのうちのどれかなんだ。

もしどれかに該当しているなら、すぐに紙とペンを持って、まずは頭の中の言葉を吐き出すこと。文のつながりや、誤字、脱字は気にしなくていいから、まずは書く。

箇条書きより、文章のほうがいいよ。振り返ったとき、わかりやすいからね。書き終わったら、君が好きな「見られている」を意識して、修正しな。「見られる」を意識するのは、このときぐらいで、いいかもな!

修正したら、いざ公開だ!ネットという大海原を航海するんだ!

あ、それと最後に。「見られる」を意識しない、自由で伸び伸びしている君は、何よりもステキだぜ!

それでは、君らしい文を待ってるぜ!あばよ!!

ノリノリな永田春奈より

わぁぁーーーー!!が、、、頑張ります!!