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「プリン」 けっち
Photo by Kobby Mendez on Unsplash
バケツのようなプリンをつくって食べてみたいと思った……という話をよく耳にします。そして実際に大人になってみて、ほんとうに巨大なプリンをつくってみたら食べきれなかった、というオチが多いです。YouTubeなどの「ファミレスで○万円たべてみた」系の企画もおなじような趣旨でしょう。多くの人が子どものときになにかを「食べまくってみたい」という夢をもっていて、それを叶えようと実際に「食べまくってみるけど、食べきれない」。どうなんでしょう、プリンやファミレスのハンバーグだけなのでしょうか。お金や社会的地位もこれと同じで「もっとほしいな…」と上を見あげているころが一番充実しているのかもしれません。
僕自身はプリンについて、「食べまくってみたい」と思ったことのない少年でした。それは僕が飽きるほどプリンを食べていた、というわけでもなく、プリンのぷるぷるした食感と濃厚でドロッとした蜜をなめることは普通に好きでした。けれども、どことなくプリンそのものに対して、自分自身を溶け込めない距離感をかんじていました。それはどういうことか?
プリンの少量のカップをもち、小さなスプーンで少しずつ食べていくわけですが、それが僕とプリンの決められた距離感のようにかんじたのでした。だからこれをドーンと「食べまくりたい!」と素直に思えなくて、僕の場合はプリンを食べまくりたいという願望すら、どこか自分のフィールドではないといいますか、たとえば「カレーを食べまくりたい!」「唐揚げをほおばりたい!」というときの、自分の欲求と自分のフィールドの一致する感じと、僕が「腹いっぱいプリンをくいたい」というのは全然ちがっていて、プリンはなんというか自分のためのおやつではない気がしたのです。プリンは上品すぎて一緒にいても馴染めない人みたいな対象だったのです。
そんなプリンと少年の僕がはじめて「対等な立場」で距離感を縮めたのは僕が高校生になったときでした。通っていた高校には学食があって、そこの購買にプリンパンというものが売られていたのです。それは冷凍のパイシートのような、ああいうサクサクしたパン生地にドーンと真ん中にプリンが乗っているのでした。
僕は最初そのプリンパンを敬遠していました。プリンパンという、自分の発想から完全にはずれてしまった未知の食べ物を、貴重な小遣いをつかって買うなら安全なアンパンかカレーパンでよかったからです。そしてプリンパンは20円くらい高いのでした。
けれど、プリンパンは女子よりも男子に大人気でした。食べてみてわかりました。プリンがサクサクしたパイ生地にドーンとのっているわけです。僕とプリンのこれまでの距離感の原因となっていた「ちょこちょこたべる」上品さはそこには必要なかったのでした。なぜなら、女子が上品にプリンパンを食べようにも、それだとプリンが地面にすべりおちてしまいます。スプーンなどありません。食べるときは、ガッツリと大きく口をひらいて、一気にプリンの半分とサクサクした生地を頬張る必要があります。そして、僕はそれまでの人生において、プリンを縦に、半分一気に食べるような経験をしたことがなかった。それはもう圧倒的な甘さが口いっぱいに広がるわけです。ちょびちょび食べるあの繊細さではなく、どにかくダイナミック。官能といってもいいかもしれない。
幸か不幸かその購買のパンを食べて以降、プリンパンをみつけたことがありません。妻にその話をしたら妻も知らなかったです。ですから僕にとってプリンといえばまず思い浮かべるのがあのプリンパン。通常のプリンについては、昔ほどの距離感を感じることはもうないですし、大人だからプリンを食べまくることだってできないわけではないです。でもいざプリンをみかけても、ヨーグルトに手をのばしてしまう自分がいます。今日もありがとうございます。