親切という名の差別意識
良く、学校の授業等で言われる言葉。
『御年寄や体の不自由な方には親切にしてあげましょう』
何の問題も無い言葉に聞こえる方の方が大半だと思うが其は親切にされる側の当事者ではないからである。
私はリアルにこの当事者側に立っている。
当事者側に立つと『何上から目線で言うとんねん』となる。
親切とは人から言われてする事では無い。
親切とはその字が示す通り行動者自身の心から発現して初めて親切となる訳であり人から言われてする親切は己の心から発現していないので親切にはならない。
子供は言われないと解らないという向きもあるが、実はそれは誤り。親御さんや周りの大人がちゃんと親切にしていればその行動を見て子供は学習する。
故に態々『親切にしてあげましょう』等と言われなくても普段から周りが他人に親切に接する場面を見ていたら、無意識に子供はそれを学習して親切にするようになる。
亡くなった甥御は幼少期から私と接してきていたので、無意識に車椅子を押す経験を積んできていた為に、学校のカリキュラムの中で迚周りを驚かせたと言う。
迚素人のやりようではなかったといわれたらしい。
そりゃそうだ、小さい頃から車椅子に乗った人がいて周りが車椅子補助をする場面を見ていたら無意識的に子供はそれを学習して車椅子の扱いになれてくる。
それこそ看護学校入学後から経験を積んだ人よりも、遥かに甥御の方が車椅子の扱いには長けている。
それは普段の生活の中にそういう人がいたからである。
親切も同じ、普段の生活の中で周りが親切に努めれば、それを子供は無意識に学んで自然と親切が出来る。
故に『親切にしてあげましょう』は差別語になる。
実はこれ、学校で実際に先生に言われた甥御が物凄く違和感を感じた経験を私に話してくれた事がきっかけ。
そんな事態々先生が言わなくても出来るんじゃないの?態々言葉にするのは何かしてやってる感がして嫌だと甥御が言っていて成程なと納得した訳である。
どうも日本教育は当事者目線が非常に少ないように私には思えて仕方が無い。
この当たりをもう少し日本の教育機関は学ぶべきだと私は思う。