見出し画像

『責任逃れをしない為の責任転嫁の薦め』


とんでもない題名で
始まりましたが
内容はもっと
とんでもない内容です。

例えば迚も責任感が強い人がいる。
何事に於いても己の責任として
全てを収めようとする人がいる。

だが之は生憎正しい行いではない。
何故なら責任の所在は一つではなく
複数に有るからである。

先ずその前に責任の言葉の
成り立ちから考えてみよう。

『任せるを責める』と書いて
『責任』と読む。

現代風に言えば『任せた人間に
全てを負わせ責め立て
己の負担を減らす』事を『
責任』と呼ぶ。

本来『責任』とは
一個人が全て負うべき物
ではないし負える物でもない。

其は『責任』自体に
多面性があるからである。

事を一人でなし一人で
完結できる者に『責任』はない。

何故ならその行いの
被害者がいないから。

然しその行いに
被害者が出る場合は
『責任』が生じます。

つまり『責任』とは
複数存在が
必要不可欠な
行為と言えます。

『相互理解』も又、
必要不可欠だと言えます。

何故なら『責任の所在』を
明らかにする為には
複数人による『共通認識』が必要だから。

だが、誰しも
矢面には立ちたくない。
それ故に『責任転嫁』を図る。

これ自体が『責任を負う』行為の
尤も重要な側面の一つ。

『責任を負えば』他者から
『責任の追求』は減る。

大抵の場合
他者から『責任の追求』を
される側は『責任転嫁』を
した者に限られるからである。

更に『潔く責任を負う』事で
本来の『責任』の重さを軽く出来る。

一人で背負うなら
少し『責任』を軽くしてあげよう
というのは人情だからである。

中には其を先読みし
『責任を負う』不届き者も
存在する。

此処迄は『責任を負う人』の話、
然し『相互理解』の側面から
考えれば『責任を負わぬ』人の
存在も忘れてはならない。

本来は『責任を負うべき人』が
自らが『責任の所在』を
世負う人に『責任転嫁』を
するケースがある。

どうせ『責任を負う』のなら
自分の『責任』も
一緒に背負ってくれと
言わぬばかりに
己の責任を放棄する
不届き者も居る。

ならば己の責任は
責任として負うべきだが
他者の責任は他者の責任
として当事者に責任を
負わせる事が一番である。

大抵自らが責任を被る者は
家庭内でも長男や長女の様に
責任を求められる立ち位置に
居る者が多い。

幼少期から年功序列で
下の責任の所在を
親に押し付けられてきた
人間には自らが責任を
負わねばならない
強迫観念感情を
幼少期から植え付けられ
その洗脳は自立後も中々解けない。

ではどうするか?
敢えて成立不可能な
責任を負わせ其処から
逃避させるよう仕向ける。

そして逃避できる事を
認識させ逃避の
正当化を教え、洗脳を解く。

人が人として
社会で生きていく為には
責任の所在は
明らかにすべきである。

そうしないと社会病質や
精神病質を患う者が減らない。

これからも私は多くの方々の
『責任の所在』を明らかとし、
社会病質や精神病質を防いで行く所存。

画像1


サポート頂いた方の思いを私なりに形にし世界へ発信していきたいと考えています。人は思いによって生かされている事を世界へ発進する為の資金に使わせて頂きます。